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『パーマネント野ばら』雑感

『ブラウンバニー』に続いて『パーマネント野ばら』がGyaO!で無料配信中である。こうなってくるとGyaO!は『さよなら絵梨』を鑑みて配信映画を決定しているとしか思えなくなってきた。(?)
7月には『シックスセンス』も無料配信してくれるととてもありがたいのだが……。
…………すごい時代になったなぁ…。

ぼくは映画はアニメくらいしか観ない人間だったんだけど、藤本タツキ氏の影響で「映画」も趣味になってしまった気がする。1日に何本も映画を観れるほど精神的に余裕のある人間ではないので本数はそんなにこなせないけど映画ってこんなにおもしろかったんだなぁと思うようになった。


そんなことはさておき。


以下ネタバレあるので注意。

『パーマネント野ばら』を観た感想、妄想など雑感をだらだら書かせていただく。
ストーリーや人物紹介などはめんどくさいので書いていません。あと原作漫画はまったく読んでいないので映画のみの感想です。
正直、今回はマイナスな感想ばかり書くので不快にさせると思います。すみません。
映画『パーマネント野ばら』を観ていない人は絶対に読まないで下さい。
それから登場人物は一部ここではカタカナ表記させていただきます。





前回、『ブラウンバニー』を観る前に映画紹介文章を読んでめちゃくちゃ後悔したので、
『パーマネント野ばら』はなんの事前知識もない状態で観てみた。というか、『さよなら絵梨』でこの映画のタイトルが出ている時点ですでにネタバレしているようなもんなのだが、それを忘れてしまうくらいには面白かったし、終盤の展開にはぞっとした。

うん、面白かった。面白かったけど個人的に最後の終わり方に、怒りというか、悔しさみたいなものが残ってしまって
今回はnoteに感想を書こうかどうか悩んだ、

けどネットで感想を漁っていたら「良い」という感想しか出てこなかったので、反対意見があった方が中和されるだろう(何が)と思ってとりあえず筆を持った次第。


◯面白かったところ

みっちゃんが夫を車で轢いたシーンと、チェンソーで電柱ぶった切るみっちゃんのお父さんが最高だった。
こうやって文章にするとまるでぼくがバイオレンス嗜好のように思うだろうけど、
みっちゃんの夫はまじでクソだったし、
みっちゃんの家族は別に悪いことをしていないのに毎日ひもじい思いをしていたから、そういう“世間様”に対する反逆をしているみたいで爽快だった。


それからナオコが幻覚でカシマとデートしていたんだとわかった瞬間は鳥肌がたってぞわぞわした。ここの恐ろしさはやばかった。ナオコが歌うような、ふわふわした口調なのはナオコが幻覚の世界で生きていたからなんだと思った。ナオコが暮らしている「島」はまるで“異世界”のような世界観だったが、ナオコの世界は本当に異世界だった。
ナオコがももを放ったらかしにしてカシマと会っていたことを、母マサコが言うように「ももの母親は誰だ」とぼくも心の中でナオコに対して怒っていたけれど、ナオコが幻覚を見ていたんだと知ったとき、幻覚を見てまでも“カシマに会いたい”んだという純粋な思いは良かったと思う。


なぜ江口洋介はイケメンの役ばかり回ってくるのか誰か教えて欲しいし、江口洋介がクズ男をやっているドラマとか映画があったら是非教えて欲しい。

◯もやもやしたところ

率直に言ってしまうと、映画を観たあと胸糞が悪くなった。
島に生きている全ての人をバカにされたような気がした。
あと子供(もも)の前でち◯こを連呼するな。

パーマネント野ばらでは「男運がない」という言葉を使うが、男運がないのではなく、男は男というだけで漏れなくクズなのではないか、と思わせる映画だった。
その中でも“イケメン”の立ち位置にいるのがカシマという男である。クズ男しかいないこの街で唯一まともそうな男、いや、途中から不倫でもしているのでは?とも思わせるカシマだが(ホテルから突然消えた時は本当の妻がいる家に帰ったのかとぼくは思っていた)マトモなやつとして描かれていたカシマは既に死んでいた。
マトモな男はもう既に死んでいたのだ。
と同時に、ともちゃんに「しっかりしてる」といわれていたナオコも、街で唯一、マトモな女性だと思っていたのに彼女はみんなが心配するくらい心に深い闇を抱えていた。みっちゃんが言うようにこの街の住人はみんな狂っている。みっちゃんもともちゃんもクズ男に振り回されて酷い目にあっている。だけどクズじゃない、マトモなカシマにすら、ナオコは振り回され、寂しさに心を支配されている。
狂ってるやつも、狂ってないやつも、みんなみんなどんな奴も幸せにはなれないんだよ、と、投げやりに言われている気がして、だからぼくはこの映画が好きじゃない。腹が立つ。

みっちゃんの夫は絶対に謝らなくて、別れることは出来たけど「いい男いないねぇ」で終わるし、ともちゃんは夫に怒りをぶつけることも出来ずに夫は逃げるように死んだし、マサコの夫は別の女と結婚するし、ナオコはカシマと幸せになれると思ったらカシマはもう死んでるし。どれだけ希望を持とうと思ってもつぎつぎにへし折られていくような映画だった。
男性はいらない、っていうことはわかるんだけど、それなら男がいなくても幸せになったみっちゃんとともちゃんを見せて欲しかったと思う。最後の最後まで「いい男いないか」と話をして、「いないねぇ」と言っていたけど、この映画が本当に男という呪縛を解く物語なら男の話なんか一切しなくてもいいし、男はいらないといいながら結局男を探しているのだろうか、と思わせるようで混乱した。


大人はしょうがないにしても、
ナオコの子供、ももだけはちゃんと救われて欲しかった。
最後、微笑むナオコの顔が映って映画は終わるのだが、この笑顔がももに向けられたものなのかもよくわからない。ももが映っていないのでナオコがまだカシマの幻覚を見ている可能性だってある。だってナオコはずっと砂を握ったままだったから。
最後ももではなくカシマの幻覚を見ていたとして、なににぼくが腹が立てているかというと、
『パーマネント野ばら』が子供を置き去りにする物語だというところだ。
ナオコも幼い頃、母親の結婚と離婚に振り回されて、寂しい思いを経験しているのに、自分が母親になった今、自分と同じ経験をももにさせているし、そのことに気づいてさえもいないのではないだろうか。ももが居てもナオコの心が満たされることはないんだろう。結局、振り回す側に立っているのは男だけじゃなく女も同じなんじゃないだろうか、子供は男にも女にも振り回される。
もしナオコの笑顔が幻覚のカシマではなく、ももに向けられているのだとしても、ももが経験してきた寂しさが消えることはないだろうし、なんの罪悪感もなく笑顔を向けられてもただただシラける。
ナオコが精神的に参っているから、ももに寂しい思いをさせてしまっていること、自分と同じ辛い思いをさせてしまっていることに気づける余裕がないんだとしたら、一体誰がナオコを、そしてももを救い上げてくれるんだろうか。ナオコはこの島には“残りカス”しかいない、と言った。
このままナオコは自分とももを“残りカス”だと思いながら生きていくんだろうか。そんなのはあまりに寂しすぎる。

みっちゃんが、「世間様の注文してきた女やってきたんよ これからは好きにさせてもらお」と言うシーンがあって、

ここで「ももの母親は誰だ」、とナオコに問いかけていたぼくは“もものお母さんであることをナオコに強要していた”のだと気づいたけれど、
だけどパーマネント野ばらに来る客は男の話しかせず、ももがひとりでお絵かきしているのをそのまま放ったらかしにして、いなくなったことに気づくのも遅かった。
「好きにさせてもらお」と思うのは勝手だが、
じゃあ一体、誰がももを守ってくれるのだろうか。
もし最後のシーンが、ももを見つめているのだとしたら、
「好きにさせてもらお」という言葉はどういう意味だったのだろうか。ナオコは離婚しているし、パーマネント野ばらで稼いで自立出来るし、ももの親権も持っているし、そもそもももはずっとそばにいたはずだ。もうとっくに「好きにさせてもら」っていたのではなかったのだろうか?

みっちゃん、ともちゃん、マサコ、ナオコが自立したと言うんなら島の住民を残りカス呼ばわりしたことは訂正して欲しかったし、
最後はももの手を握って、子供の将来を考えてほしかったなと思った。














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