アメリカで見かける老夫婦像
本日は、理想の夫婦像についてのお話です。
米国に住み始めてから、もうすぐ丸4年が経とうとしています。
私が住んでいるのは都会に(田舎×3)を足して4で割ったような、とても住みやすい地域です。
自然が多くて、ベランダには毎日カーディナルがやってくるような場所です。
車がないと生活できないけれど、そのぶん全てが広々としてゆったりとしている。
独立記念日とその前日の7月3日、4日にはあちこちで盛大な花火が揚がり、妻と私は近くのショッピングモールの駐車場からそれを眺めて喜んでいました。
そして先週末はと言えば、いつもとても親切にしてくれる友人夫婦が野外コンサートに誘ってくれたので、妻と一緒に行ってきました。
しかし会場のパークに着くも、数時間後に雷雨の予報が出ていたことから、コンサートは中止となったことが判明。
それを教えてくれたのは、一足先に到着し、お弁当や飲み物を近くのテーブルに広げていた老夫婦でした。
コンサート中止の事実はショックでしたが、それはさておき。
とにかく、そのとても上品な佇まいの老夫婦は、野外コンサートのために持参したのであろうお弁当や飲み物を、近くのテーブルに広げているのでした。
コンサートはなくなったけれど、せっかくピクニックセットを持参したのだから楽しもうという心意気。
残念がってはいるものの、別に無理をしている様子も意地になっている様子もなく、ただただ自然な選択肢としてピクニックセットをそこに広げている、そんな感じでした。
老夫婦が二人で野外コンサートを聴きに来て、中止になったのでその場でピクニックを楽しむ。
我々はその姿に何と言うか、余裕とか優雅さとか豊かさとか、そういうものを見たのです。
そこで今日はこのアメリカの、我々が暮らす地域で見かける老夫婦像について綴りたいと思います。
独立記念日の花火でも、モールの駐車場にはたくさんの見物客が集まっていました。
多くの家族がポータブルチェアを持参し、そこに座って花火を眺めます。
子ども連れの家族が多い中、我々のすぐ近くには、ポータブルチェアに並んで腰かける年老いた夫婦もいました。
老夫婦は頻繁に会話をするわけでもなく、ただ並んで花火を見ていました。
この姿に妻と私は、「ああ、いいなあ」と思ったのです。
分かりますかね?
会話が少ないことは問題ではありません。
彼らは、花火を見ながら二人で過ごすためにここへ来ているわけです。
家族や孫の姿もそこにはなく、ただ二人の時間があるのです。
何か、すごく良いと思いませんか?
いや、このまま話を進めるにあたり、注意しなければいけないことは分かっています。
妻と私が抱いたこの「ああ、いいなあ」は、我々の中にある”老夫婦”のステレオタイプを反転したものでしかなく、現実の彼らの事情も心情も、実際には全く理解していないということに。
例えば、そもそも彼らには家族も孫もいないかもしれません。
あたかも長年連れ添った夫婦のように見ていますが、実は新婚かもしれません。
そもそも彼らは夫婦ではなく、ただの友人かもしれません。
友人ですらなく、たまたま隣り合って座っただけかもしれません。
ひょっとすると、実は年老いてさえいなかったかもしれません。
とはいえ。
渡米以降我々が知り合った老夫婦の皆さんはいずれも仲睦まじく、年老いた二人が手を繋いで歩いている姿もよく目にします。だからモールの駐車場で見た彼らも、パークのテーブルにお弁当を広げていた彼らも、いずれも”老夫婦”ということで話を進めます。
何と言うか日本では、中年になって、年寄りになって、それでも配偶者と手を繋いで道を歩くって恥ずかしいみたいな風潮、感じませんか?
中年夫婦や老夫婦が二人の時間を大事にしようとするのって、何か恥ずかしいみたいに思ったことや感じたことって、ありませんか?
そういうのは結婚前の若いカップルがやること、みたいに感じたこと、ないですか?
もしないのなら、日本は確実に昔より良くなっていると思いますし、これ以上この記事を読んでいただく必要もありません。ありがとうございました。
ここからは我々夫婦が例によって抱く”呪い”の話になります。
社会や伝統、そして”空気”によってもたらされた呪い。
あるいはこの心理的な束縛を、社会や伝統や”空気”のせいにしたいだけかもしれませんが。
年老いても、妻は台所仕事に勤しみ、夫は居間で新聞を読んでいる、みたいな。
それが昭和生まれの我々が未だに心に抱く、唾棄すべきステレオタイプです。
いくつになろうが手を繋いで歩くし、二人の時間を大事にできる夫婦。
それが婦婦だろうか夫夫だろうがそれ以外だろうが、私が言いたいことは同じです。
そういう年の取り方って、滅茶苦茶クールじゃないですか?
クールじゃないなら、滅茶苦茶心温まりませんか?
アメリカに来て、そういう人たちにたくさん出会いました。
私たちも、そんな風に年を取っていきたい。そう思うのです。
翻って考えるに、パートナーとそういう年の重ね方ができないのだとしたら、それはいったい何故なのか?
それはひょっとすると、”他人同士であることを辞めたから”なのではないかと思うのです。
残念なことに日本では、結婚したら姓を統一しなければならないというアホな法律が存続しています。
戦後始まったこんなバカみたいな法律が、何故未だに罷り通っているのか?
甚だ理解に苦しみます。
夫婦が同姓であることを望むなら自分がそうしていればいいわけで、別姓を望む多くの夫婦の選択を殺す必要がどこにあるのでしょうか。
馬鹿じゃねーの?
しかしこれが罷り通っている事実に、”婚姻すなわち一体化”という、気持ちの悪い意識の蔓延が垣間見えるように思うのです。
”家族”という共同体への、過度な幻想も。
ちょっと考えてみてください。
我々は皆、本質的には他人同士です。あなたはあなた一人だけ。私は私一人だけです。
しかしこの至極当たり前の事実が、結婚することで見えなくなってしまうのだとしたら。
夫婦という、単なる契約に基づく個人同士が、夫婦と言う一個の生物だとみなされてしまうのだとしたら。
中年夫婦が若いカップルのように手を繋いでいたら恥ずかしい、みたいな認識になるのも、納得できる気がしませんか?
”いつまで他人同士のフリをしているんだ”、と。
”もう一体化したのだから、一個の存在として振る舞えよ”、と。
もしもあなたの心がそんな風に囁くのなら、あなたは怒鳴り返さなければなりません。
「いやフリじゃなくいつまでも他人同士だし、これからも一個の存在になることなんてありませんけど!!!???」
ここでもしも「中年が」手を繋ぐという点に引っ掛かりを覚えているのなら、あなたは別の何かに呪われています。その呪いについては、いずれまた語るかもしれません。
我々は、結婚したっていつまでも初々しく、緊張感を持っているべきなのです。
いつまで経っても、本当は他人同士のままなのだから。
まあそうは言っても、最初に手を繋いだ時の嬉しさは薄れて、消えてしまうかもしれません。いつだって、最初というのはその一回だけですからね。
でも、当たり前に手を繋げることの喜びを抱いたまま、年を取りたいじゃないですか。
アメリカに赴任して、街で見かける老夫婦を「ああ、いいなあ」と思えたことは、とても良かったなと思うんですよ。
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