遺産相続争いを手伝った話・前編
こんにちは。師之井景介です。
今回は、誰かのために働くということのモチベーションと、その中で感じた正しさや赦しについて綴りたいと思います。
遺産相続争いの手助け
私はここアメリカで、この二年ほど知人・山本幸雄氏の手伝いをしています。
彼は日本に住む親戚・宮崎氏に対し、父親からの遺産相続に関する訴訟を起こしていました。しかし裁判を進めるにあたり、大きな問題を抱えていました。
日本語読解能力です。
幸雄さん自身は日本人ですが在米歴が長く、日本語を話すことはできるものの、難しい文章を読んだり書いたりすることが苦手です。しかし実際、弁護士へ提出する事実関係の文書化や、それに基づき弁護士が作成した文書の読解とそのチェックには、相応の日本語能力を要します。
そこで私に声が掛かり、私は彼を手助けすべく動き出しました。以下のようなことを、幾度にも渡って行なってきたのです。
それから2年。裁判も間もなく決着しようとしています。ざっと計算したところ、私がこのために無償で割いてきた時間は、200時間以上に及びます。
この泥沼の相続争いを、ひょっとすると幸雄さん本人以上の特等席から眺めてきた私が感じたことを、ここに綴りたいと思います。
だって話題が話題なだけに、こんなこと、妻を除いてリアルでは誰にも語れませんからね。ここを見ている奇特な人に、せめて私の思いを知ってほしいのです。
なお、やはり話題が話題ですから、事実関係については適宜ぼかし、虚実を織り交ぜている点はご了承ください。人物名は、全て仮名です。
恩返しと、正しさという動機
何故私は、彼の手助けを引き受けたのか。
理由の一つに、幸雄さんの妻・ジェーンさんの存在があります。彼女は我々に英語を教えてくれたり、料理のレシピを教えてくれたり、たびたび美味しい食事をごちそうしてくれたりと、つたない英語しか話せなかった我々に、とても優しくしてくれました(それは今も続いています)。キリスト教の理念(Christianity)について多くを教えてくれたのも彼女です。
幸雄さんを助けることが、ジェーンさんへの恩返しに繋がれば。そんな思いが動機の一つです。
そしてもう一つの動機が、正しいことをしたいという思いです。
幸雄さん曰く、どうやら本来彼が受け取るべき父の遺産を、宮崎氏が巧妙な手を使って騙し取ったというのです。幸雄さんの父は2年前、日本での終末医療の末に亡くなりました。しかし生前、幸雄さんらが日本にいないのを良いことに、宮崎氏は幸雄さんの父名義の銀行口座から不正に引き出しを行い、残高ゼロとなるまで引き出しを繰り返しました。つまり、幸雄さんの父の遺産となるはずの金額を全て奪ってしまったということです。
幸雄さんは、宮崎氏が彼の父をまんまと利用し、財産を掠め取っていったことに怒りを顕わにしていました。確かに宮崎氏の行いは、どう考えても正しいものではありません。ゆえに私は正義の気持ちに駆られ、幸雄さんを助けることに決めたのです。
しかし、弁護士が送付してくる宮崎氏サイドの文面や各種の証拠資料を確認し、幸雄さんとの対話を重ねてゆくうちに、正しさと恩返しという二つのモチベーションは、徐々に揺らいでゆくことになります。
徐々に生まれる、正しさへの疑問
民事裁判の期間は平均1年とか1年半などといわれており、その期間の中で何度も双方の主張の交換が行われます。やり取りされる宮崎氏側の主張と幸雄さん側の主張、そのいずれの文書も読み込み整理してゆく中で、私の中に、徐々に戸惑いが生まれてゆきました。
宮崎氏は、本当にそこまで悪い奴なのか?
いや、確かに宮崎氏が小ズルい奴なのは間違いありません。しかし彼にも妻や子どもがいて、お金が必要であったことが文書を通じて分かってくるのです。無論それもまた宮崎氏と彼の弁護士の戦略であり、裁判官に情で訴えようとしていることは間違いありません。しかしそれでも私は、彼のズルさを少し理解できてしまうのです。
例えば、幸雄さんの父の銀行口座を開設したのは、他ならぬ宮崎氏です。彼は利用可能な法や制度を駆使し、海外居住者である幸雄さんの父でも受給可能な各種保険や手当てを見つけてはその申請手続きを行い、口座にお金が振り込まれるよう仕向けました。そして、そこに振り込まれた金額を定期的に引き出して私物化していたのです。
これらは言うまでもなく狡猾な手口であり、全く賞賛できるものではありません。しかしその一方で、そんな手法で口座に振り込まれた金銭について、父の遺産であり宮崎氏が不正に掠め取ったのだと、声高に主張する権利が果たして幸雄さんにあるのか、私には分からなくなってきていました。
キリスト教における赦しと、赦さない幸雄さん
聖書における祈りの言葉に、以下の一節があります。
これは、神へ赦しを求める祈りである一方で、自分もまた、自らに仇をなした他者を赦すという宣言でもあります。でも実際、他人を赦すというのは、とても困難です。怒りや憎しみというのは、ヒトの感情の中でも特に大きな力を発揮しますし、簡単に止められるものではありません。
ある日の幸雄さん宅。私の妻は、ジェーンさんに英語を習っていました。この時ジェーンさんが妻に語っていたのは、キリスト教が伝える赦しについてでした。他人を赦すというのは難しいけれど、大切なことなのだと。
時を同じくして別室。私は幸雄さんと、弁護士に提出する文書を作成を行していました。幸雄さんは声を荒らげ、宮崎氏は財産泥棒であり悪人であると罵倒し、彼がいかに狡猾で非道であるかを熱弁していました。その罵倒を、弁護士へ提出する説明文に追加してほしいとまで言われました。
赦す気ゼロです。
赦しの重要性と赦しの不可能性が、同じ屋根の下で同時に語られている。
なんかもう、漫画みたいじゃないですか?
「いや、弁護士に出す文書とはいえ、『財産泥棒』とか書くのは良くないと思いますよ……」
私は幸雄さんにそう言いました。裁判所はあくまで客観的な立場で原告と被告の主張を整理し、判断します。ゆえに、宮崎氏を罵倒する文面をどれだけ綴って弁護士に提出しようが、それが幸雄さんの主観でしかない以上、弁護士がそれらの言葉を採用するはずがないのです。むしろ弁護士はこちらが冷静さを欠いていると思うかもしれず、良いことなど一つもありません。
しかし結局、幸雄さんが強く希望するので書いたんですけどね。宮崎氏は財産泥棒であると、太字で、赤で。
結局、弁護士が作成した正式な文書に、その言葉が使用されることはありませんでしたが。当然ですね。
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こうして私は、誰よりも近い距離から、知人の相続争いを眺めることとなったのです。
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