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焦点を自分の外部に向けた西洋哲学と、内部に向けた東洋哲学と、現代マジックの流れについて

人に苦しみや不幸があるのは、外部環境(例えば神)のせいとする西洋哲学。
と、
人に苦しみや不幸があるのは、内部環境(心の振る舞い)のせいとする東洋哲学。

ブッダは苦しみや不幸は、一神教的な神の気まぐれであるという考え方や、二元論的な悪に善が押されているからというわけではなく、当の本人の心がそう感じているからである。と考え、人間は欲を持っているから不幸を感じるのだ。と悟ったとされています。

神は死んだといったニーチェの時代からもかなり時間が経ち、これだけ科学が発達してきた現代、前頭前野レベルで”神”の存在を信じている人は相当少ないと思います。

”神”や”悪魔”という存在に責任を押し付けることができなくなった現代だからこそ、禅やマインドフルネスに注目が集まっているのだという意見もあります。

大いに共感できます。

超能力や超常現象、人知を超えた不思議な効力というものは、やっぱり存在しない。ということが人々の共通認識になってきた現代、”不思議”や”魔法”を表現するマジシャンという種族の人間は新たな局面に対峙していると思っています。

2,30年前は”ハンドパワー”を本気で信じる人もいたようですが(超魔術=超能力だと世間は勘違いして大変な騒ぎになっていたとか。。)、今は、”プレゼンテーション/パフォーマンス”としてのハンドパワーとして捉えられていると思います。

今は本気でハンドパワーの存在を信じているわけではないけれども、あたかもそれが実在しているかのように前提を共有してマジックを楽しんでいる状態。

某ネズミのキャラクターの中には人が入っていることはみんな知っていることだけれども、その前提の元、楽しんでいる状態と一緒です。

サイキック系(読心術とか)の現象を起こすパフォーマーはこれまで通りリアリズムを追求し続ける流れだと思いますが、一方、物理現象系はリアリズムを追求することにかなり限界を迎えていると考えています。(科学の進歩と人々の科学的思考力の向上によって)

それゆえ、物理現象系のマジックが今フィクショナルマジックに活路を見出そうとしているのは自然な流れな気がします。
というか、生き残りをかけてどうにか活路を見出そうと必死になっている状況だと認識しています。

(個人の見解ですよ〜)

なお、リアリズムとフィクショナルの違いは僕も勉強中ですが、↓な感じで捉えています。

・リアリズム
 =>不思議な現象の理由は、パフォーマーの人知を超えた能力に依存。
 ex:スプーンが曲がったのは、ハンドパワーを送ったから

・フィクショナルマジック
 =>不思議な現象の理由は、その時に設定されているフィクションに依存。
 ex:空を飛べるのは、ピーターパンという設定だから。

余談ですが、リアリズムの文脈の中だけでマジックを考えているから、種がわかるかどうかとか、見破れるかどうか。みたいなことになっちゃうのかなーと。

ある種、時代の転換点にいると思うと、今の世界のマジック事情がどう動いていくのか、自分はどう関わっていくのか、とてもおもしろいなーと思います。

では、おやすみなさい〜。

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