バイトの愚痴

2019/08/07 午前1時記す

 なんだか眠れないから日記を書く。えらく久しぶりだ。僕にとって日記はそういうものだ。気が向いたときに書く、それでいい。

 高校時代の友達の日記をたまに見ている。向こうは気がついていないだろうけれど。悪いことをしている気分だ。やめたほうがいいのだろうけれどやめられない。一体なんなのだろう。多分、自分に似ているところがあるからだろう。

 高校時代、僕はその人のことが嫌いだった。今はそうでもない。単純に距離が遠くなったからそう思っているだけなのかもしれないけれど。自分に似ていたから嫌いだったんだ。夢見がちで、何かを作ることに憧れていて、自分に才能があると信じていて、要するにクリエイターぶりたいナルシストなのだ。そのくせして、そういう人間が嫌いでもある。いや、それは違うのかもしれない。好きだし、嫌いなのだ。

 自分に似ている人が嫌いなのは、自分のことを好きで痛いからなのかもしれない。自分に似ている人は、自分自身の嫌いなところを、目を背けているところを見せてくる。だから嫌いだと思うことによって、防衛しているのかもしれない。

 昔に比べて、その人のことを許せているということは自分のことを少しは許せるようになっているということなのだろうか。それはそれで違うような気もする。

 なぜなら、いまだに嫌いな人はでき続けているから。しかしどうだろう、嫌いにも色々とあるのではないか。単純にその人が嫌な人だという場合、その人に嫉妬している場合、過去の自分と似ているなと思う場合。

 まあ色々ある。そもそも簡単に好きだとか嫌いだとかで分けられないこともある。僕らは二元論が好きだから…って好きって言ってしまっている時点でどうかと思うけれど。まあいい。

 なぜ眠れないのかというと、塾のバイトのことでモヤモヤしているからだ。先輩に口論で負けた。口論の際に人格まで攻撃された。想像以上に傷ついた自分に驚いた。こんなに自分は弱かったのかと。もっと自分は強い気でいた。本当は気弱なのに威勢を張っているだけだったのだ。

 口論のとき、頭が回らなかった。話をすり替えるのが上手い相手だった。口げんかが上手いということと、正しいことを言っているというのは全く違うのだと思った。すでに相手の中で判断が決まっていて、それを決して覆そうという思いがないという感じ。それではコミュニーケーションは生まれない。ただただ論破しようというだけでは何も生まれないじゃないか。相手の言葉によって、自分の考え方や価値観が変わる可能性があるということがコミュニケーションの、会話の大事なところだ。

 僕はどうだっただろう。まず、苛立ってしまった。頭のいい人はわからないというレッテル貼りをされてイラっと来てしまった。弱さで人を殴るとはこういうことなのか。その時、強さを持っている人はただ殴られるしかないのだ。

 いったいどのように話をずらされたのだろう。少し整理してみる。

 まず、生徒に今年のセンター試験を解かせようということから口論は始まった。僕は、数学や理科はいいかもしれないけれど、国語や英語は違う問題をやらせるべきだと主張した。しかし、相手は全て同じ問題にすべきだと主張した。

 なぜ僕はそう主張したか。

 理系教科は、いかに公式を覚えておりそれを活用できるかである。だから、同じ問題を解いて解ければ成長を感じるし、解けなければまだ復習が足りなかったということでいい。それについては特に異論はない。公式に漏れがあってはいけないからだ。単純に勉強すれば勉強するだけ点が伸びる教科でもある。

 しかし、国語や英語は違う。文章を読んだことがあるのか、ないのかで全く問題に対する印象、向き合い方が変わってくるはずである。特に、古文や漢文は、日本語で読めばさして難しいことを言っていない場合が多いから、内容を理解しているだけで出来はかなり左右される。それははたして勉強した、復習した成果だということができるのか。一般論として難しいであろう。

 理系教科は定理を、公式を理解しており覚えているかどうか、そしてそれをうまく活用できるかどうかで点数が決まる。しかし、文章問題に公式のようなものはない。言い換えれば、理系教科はあらかじめ答えを知っているようなものなのだ。当てはまる公式を知っていれば、答え、導き方は知っていたということになり、あとは計算だ。対して、文章問題はそれではいけない。初めてみる文章と同格闘するのかが重要となる。毎回その格闘が正しかったのかどうか振り返り向き合ってきた人に実力がつく。初めて見た問題でもその実力を試すことは十分にできる。だから実力がついたことを生徒に知ってもらいたいのであれば、初めてみる問題でも十分なのだ。同じ問題を出すことは、本当に彼らの実力を試すということにならない。それは理系教科についても言えることではある。しかしまだ、理系教科の方が新たに習ったところもあるし、新たに覚えた公式もあるだろう。それを試すことができるからまだ良い。

 ここまでうまく説明できればよかったのだ。悔しい。直感的にはわかっていた。しかし、うまく言語化できなかった。

 同じ文章が入試問題で出ることは、理系教科で参考書で見たことがある問題が出るのと同じだとその人は言っていた。それも違うと思う。確率が違う。理系教科に関していえば、典型問題という言葉があるように、参考書で見たことのある問題と似た問題が出る可能性は高い。しかしながら、文章問題で同じ文章が出るということはまあない。同じ文章が出るのであっても、それを何度も読ませ、覚えさせればいいというわけでもない。これも一般論として正しいと思う。

 また、満点が取れるまで同じ問題を解かなければならないというようなことも言っていた。それも違うと思う。入試は満点を取らなくても受かる。理系教科に関してはある程度のところまでは定着が必要なのかもしれない。理想論を言えばそうだ。しかし、文章問題でそれをやると時間の無駄だ。

 きっと彼は、僕のことが嫌いなんだろう。それは嫉妬かもしれないし、同族嫌悪なのかもしれない。いろんな意味で頭が良くないといけないと僕は思う。会社のいいなりになる、もとい自分の思想と会社の思想を一致させるのはすごく楽だ。僕だってなるべく会社の言う通りに動くようにしている。でも僕は日々葛藤している。それに彼はきっと気づいていないだろう。公と私の対立とも言えるかもしれない。そりゃあ、会社ではあなたが正しいさ。でも僕は一介のアルバイトだ。そんな阿呆な全体主義になんか飲まれたくなどないね。彼もきっと気づいているんだと思う。会社のスローガンをなぞっているだけだと。本当はそうしたくないから、それを体現しているように見える僕に嫉妬するのかな、なんて思ったけれどこれはただの自意識過剰だ、きも。