人生はままならず、気は移ろう。
俺は社会人だ。月日の進みは年を追うごとに早くなるが、まだ折り返しとは言えない年頃で、例にもれず日々の労働とどう向き合うか悩む日々である。
今、新しい仕事でつらさを覚えている事がある。これを言語化しておくことで、自己と向き合っておきたいのだ。おそらく近く何らかの選択をすることになる。その時の為である。
今よかったと思っている事
システムの開発会社というものが、どういう取り組みや、予算の考え方をしているかを知れた事。
よくできたプロジェクトや、よくできたPMを知ることで浅く少なくはあるがシステム開発プロジェクトの必要要素を知ることができたこと。
これまでの経歴で触れることのなかった業界の仕組みをある程度の前線で垣間見ることができたこと。
人より多少は勝るだろうくらいに思っていた、理解力や話の仕方が他所でも通用するという実体験を持てたこと。
(今のところ)一致団結して仕事に取り組んでいるように見えている事。少なくとも別の方向に向いている感覚はない。
在宅で仕事ができること(良し悪し表裏一体ではあるが。)
総括:知識と経験の吸収と、チームワークの感覚はよいと思っている。
今抱いているつらさ
指示や進捗確認の難しさ。フルリモート故に誰が何をしているかがわからない。何でそんなに遅いの的な不満。
与えられているミッションのプレッシャー(炎上のピークみたいな所からの立て直しが2連続でミッションになっている。期待は感じるが、まぁしんどい。)
報酬を維持する事へのプレッシャー(予算の考え方が自身にインストールされればされるほど、今の報酬に資する仕事ができるのか?という不安がある。)
事業を預かるプレッシャー(B2Bの仕事の最前線。売上も大きく複雑な環境も多い、すべてを把握することはできないが、その中で仕事ができるほど、信頼できるメンバーや仕組みがある印象は抱けていない。むしろそれを作らないといけない立場だ。)
今より仕事が楽になることはない。という事実(体外折衝をし、社内進捗を確認し、ワークをし、計画を立てる。これをずっと続けるのか?)
在宅によるフラストレーション(損なわれる実感のある健康、生活時間と仕事時間の隣り合わせ)
事業に対する不安(安定している事業ではない。俺が(俺も)頑張らないと何があってもおかしくない)
総括:プレッシャーに応えようとする気負い、今の動きを続ける&拡大する不安。
そもそも俺は
俺は本当は働きたくなんかない。仕事の中で成し遂げたい事や、志なんてものはない。今の生活を維持し、少なくとも家族がいるうちは維持できる方法を探しているだけだ。
おそらく、俺は基本的に人に何かを任せるということが苦手だ。誰かに仕事を任せるとしても、その領域に対する理解を俺がしていることが前提で、任せた相手が自律的に理解し、行動することへの期待値が低い。『そこは君に任せた。』を自分が主体的に行っている取り組みに対して、できない。
一方で、『任せられる人』と共に仕事をすることを期待している側面もあったはずで、それは今の場所で得たい経験でもあった。
だが、俺は俺が思っている以上に任せられる(任せられそうな)人間で、世の中には任せられない人間が”やはり”多く。楽はできないんだろうな。というある種の絶望がある。
俺には死ぬまで逃げないというような覚悟は無い。逃げ道が見えたとき、容易にその逃げ道を正当化する理論を立てて、正当なものにしてしまう。
半年ほど前に、俺は経緯への敬意を尊重したいと、自己分析をしていた。ただ、これはつまり、否定を避けたいという願いでもある。
自分自身の選択に、自分が一番敬意を払いたいのだ。
だから喉元を過ぎたら熱さを忘れてしまう。その毒を飲んだ行為を正当化したいからだ。
実に人生はままならない。
自分の目に映る世界が嘘なのでなければ、俺を頼りにしてくれる人は相応にいるようなのだ。自分の身の回りに起きることを快と不快に分ければ、誰かに頼られることは快だ。第三者が自分を必要とする、存在の肯定はそこにいることを認める非常にわかりやすいファクターだ。
だが、その頼られる量が多くなればなるほど、応えるためのパワーを持たなければならなくなる。維持して、次も頼られるようにならなければならない。そして頼りない姿を見せることもできない。
という思考が根付いている。
年を重ねてできないことはできない。という事を言うようにはしてきたが、自分(だけ)ではできない、では出来るようにするにはどうしたらいいのか?できないことは出来ないと言う事とセットに、代案を持つ事を自分に強いているように思う。
表向きは相手に『じゃあ、どうすればいいと思う?』と聞く。だが、自分の中で代案は必ず持っていて、それとの答え合わせをしようとしている。本当に相手に考えを委ねるのは、思考停止や思考放棄なのではないか・・・?否、委ねつつ自己も思考することは両立できるはずである。委ねる相手が、いれば・・・。
俺が望んでいるのは、この出来ないことに対して俺の代案とは異なる、次の代案を持っている人と何かに取り組むことを望んでいる。望んでいるはずなのだが・・・必ずしも誰もが代案をもっては、どうやら、いないようなのだ・・・。それは口に出さないだけで内面には持っているのかもしれないが、それは俺には見えないのだ・・・。
そもそも・・・
この思考の滝壺に落ちるのが、本当に求めている事と乖離している。
おそらく、おそらくだ。
俺は単純に・・・これ以上頑張りたく無いんじゃないか。
あれやこれやと、知識を身に着けた。
幸いにも収入は増えた。
だが、本当は今の思うがままに、日々を過ごしたいはずなのだ。自分の手の届く範囲から頼られ、今あるがままに応えていたい。でも、奪われたくもない。
だから・・・
今は奪われた手の届く範囲を再構築している最中で、その手の届く範囲が、他者からの期待と自分の自己評価でズレがあるから、辛い。だが、それを低く見積もると、自身の評価の正当性が失われる。それを許容できるほど面の皮は厚くない性格なのだ。
一方で・・・奪われた手の届く範囲が戻るのなら、戻りたいのかも知れない。おそらくそれも期待している。また裏切られるかもしれないのに。
まったくもって人生はままならない。
だから、手が届くと思っている勘違いを、本当は改めたほうがいいのかもしれない。
君は僕を頼りにする。僕はそれに応える。
それまでなのだ、手の届く範囲と錯覚するのがおこがましいのだ。
自分を戒めた時。環境は人生はどうにもままならないと気づいた時。もうそこで何か判断をするとしたら、時間や生活と交換できる金だけではないか。
気持ちはどうせ移ろってしまうのだから。
シンプルに考えたほうがいいのかもしれない。
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