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長渕剛と静寂

♪ピンポーン
……
応答はないが、いつものように、玄関の鍵はあいている。
「こんにちはー、○△訪看です。お邪魔しまーす。」

ドアを開けて、入室し、右側のベッドを見るとAさんが、『誰?』という表情で、頭を持ち上げて覗き込んでいる。

「訪看の○○です。」と挨拶すると、
目をパチパチさせて、
『ああ、看護師さんね』と返事をされる。

「あれ、ヘルパーさんは?奥さんは?」と言いながらテーブルを見ると、連絡帳が開いて置いてある。

【訪看さんへ  
朝、便はたくさん出たので、今日は浣腸をしなくても大丈夫です。中学校の入学説明会に行ってきます。】と奥さんからのメモ。

「そうか、じゃあ、Aさん、今日は、リハビリとマッサージをしますね。」
『うんうん』とうなづかれる。

Aさんは、40代の時に、バイクの交通事故で生死を彷徨い、なんとか命はとりとめたが、右半身の麻痺と高次脳機能障害が残った。そして、頸部に、気管切開をしているため、声は出せない。
麻痺側は、筋肉の萎縮や、関節の拘縮があるので、筋肉の緊張を緩めながらマッサージ、関節可動域運動をしていく。

Aさんは、私と同世代で、長渕剛が好きだ。自分の結婚式で、長渕剛の歌の弾き語りをされたと聞いている。
実は、私も、中学生からファンクラブに入るほどの長渕剛のファンである。今は、オバサン訪問看護師だが、当時は、フォークギターで、長渕剛の曲を弾いたり、バンドもしていた。

よし、今日は、長渕剛の曲を流すかな。
スマホのアップルミュージックで、長渕剛の1980年台のライブアルバムを選択。Aさんの頭の右側にスマホを置く。

♪1981年、今年一発目の曲はこれから!
巡恋歌!♪と、張りのある若かりし長渕剛の声が、流れ始める。「巡恋歌」は、ハーモニカとギターの前奏から始まる。最初の数音で、観客は総立ちになる。長渕ファンにとっては神曲なのである。

曲が始まると、スマホのある右側に、Aさんの顔がぐるっと向いた。

えっ? 

右麻痺があるので、いつもは、左方向に顔を向けていることがほとんどなのに、長渕剛の曲を聴こうと、自然に向いたのである!なんと!

「Aさん、この曲、もちろん、知ってるよね?」
『うんうん』と瞬きとうなづきで返答される。
「この曲、弾けます?」
『うんうん』
あまり話しかけて、邪魔すると悪いので、私は、黙々とマッサージとリハビリをしていく。

シーンとした部屋には、長渕剛の少しハスキーな高音の声と、マッサージの摩擦の音だけが響く。Aさんは、顔はスマホに向いたまま、時折、目をつぶって聴いている。
なんだか、厳かな空気感。
昔を思い出しているのかな。
Aさんが、今の状態で、
長渕剛のコンサートに行けたとしたら…  
行けたらいいのにな…
そんな思いを馳せていたら、
あっという間に終わりの時間になってしまった。

「Aさん、ごめんね、今日はここまで。
続きは、また来週にするね。」と曲を止めた。

『うんうん また来週宜しくな 楽しみにしているよ』
聞いたことのないAさんの声が、ふと聞こえてきた気がした。

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