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なにが人を苛立たせるか、自己イメージを夫婦で共有しているか、みたいなことについて。

 子どもが39.9度の発熱。(すでに小児科で「ヘルパンギーナ」と診断を受けている。)
 
 頭と背中が布団の外へ追い出さなきゃいけないぐらいの湯たんぽのように熱くなっていた。顔を真っ赤にして、嘔吐している。
 私も夫も心配して少し気が立っていた。私が夫に「背中をさすって!」「もうさするのはやめてあげて!」「気持ち悪くなってもっと吐きたくなるから。」と言うと、夫が「上向きにさすると吐きたくなって、下向きにさすると安心する。」と確信したように言う。
 私が「そんなことないよ。気持ち悪くなるから私はやめてもらいたかった。なんでそんなこと知ってるの?」と自分が子どもの頃に母にさすってもらっていたことを思い出しながら言うと、夫の表情と声色が変わる。
 「なんで僕が知ってるか?」「僕はなんて言いましたか?病気をあんまりしなかったってこと以外になんて言った?」「乗り物酔いをよくするって言わなかった?新幹線でも吐いたって。」と先生が出来損ないの生徒に対して嫌味を言うように話す。
 
 子どもは気持ち悪そうに表情を固めて、私を見ている。
 
 向田邦子の『父の詫び状』というエッセイを映画化した作品を思い出す。酔っ払った向田邦子の父親が盛大に物音を立てて帰ってきて、玄関に履き散らかされる靴のシーンが印象に残っている。内容を細かく思い出せないが、酔っ払った父を迎える家族それぞれの気持ちが描かれていて、自分の家族と重ねながら観ていた。

 座薬をいれ、しばらくして笑顔を取り戻した子どもと夫を家に残し、外に出た。(夫は面倒見の良い子ども好きな父親で、料理もできる。子どもからも信頼されていて、私がいなくても特に大きな問題はない。いまは、自分の気持ちの面倒をみたいと思ったからだ。子どもには買い物に行くと言った。)

 向田邦子の父親と私自身の父を比べていたかつてのわたし。その父と私の夫を比較し、どちらが悪い夫か、性格が悪いのは夫か、私か。そんなことを考えながら歩く。
 私の父と夫はタイプが違うと思っていた。父と違って、夫は自分の意見を他人に押し付けることをしない。ただ、自分の知識や経験をバカにされたと思われる事象を見逃さない。たとえ論点がそこになかったとしても、自分事として、自分にベクトルが向けられたと判断したら、容赦なく相手への攻撃を始める。

 私は彼の自己イメージを誤解していたと思う。

 料理人に憧れた時期もあるぐらい料理が好きで、家にある食材で適当に和食、中華、イタリアンと美味しく仕上げてくれる。お金がなくても節制して楽しく暮らせる。山登り、中距離走が好きで、忍耐力がある。地に足がついていないようにフワフワ歩く。恋愛経験が少なく、独り身が長かった。くだらない冗談を日常的に言うのが好き。好きなお酒に関する仕事をして生計を立てている。
 そんな彼を私は「自分の長所を理解し、ある程度自分に満足している。人からの評価よりも自分が楽しめることを大切にしている。」と思っていた。
 しかし、そんな単純ではなかった。プライドが傷つけられる経験をしているし、好きな人に振り向いてもらえなかったことも多かった。よく理解してくれる人もいない。

 最近思うのは、自分の近くにいる人こそ「他人」であり、その人のことを「知っている」とは言えないということ。

 親は子どもを知っているか?子どもは親のことを知っているか?夫は妻を知っているか?妻は夫を知っているか?

 人のことは、知ろうとしても、なかなか掴むことができないものだということが少しずつ実感として分かってきたような気がする。自分の気持ちすら。

 確かなことはなくて、右も左も分からないまま、混沌のなか生きている。

 不安なことしかないけれど、そんなことより、生きることを楽しむことを考えよう。人の気持ちを考えるよりも、自分の気持ちを抑えるよりも、二人、三人、四人、みんなで、楽しむことを考えよう。

 人には、十一面観音みたいに色んな顔があるよね。おんまかきゃろにきゃそわか。

 そろそろ家に帰ろう。


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