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文法以前(3)そもそも言語て何や?_私の言語観:バロウズのとは別の言語ウィルス説_

【2022.7.3追記】私は、コトバをまったく信用できない。反面、深く恐れ入り、妄想に近い期待をし、たぶん何とかできるんじゃないかという根拠のない確信まで持っている。
何とかする? 何の為に? それは、金子の為でも、知的好奇心を満たす為でも、ましてや社会に貢献するんだという責任感からでもありません。
共時態/通時態のコトバの十字Linguistic Crossを切りながら。


 ゲンゴてコトバでしょ?_(〇)参照_ たぶんそんなに大きく間違ってはないと思うんですが、改めて「それ」についてうんぬんする場合、多くの人は「言語」を使うようなので長いものに巻かれて

「言語」とは何ぞや?

 何かを「指すもの」であることはたぶん間違いなさそうですが、音楽が「音それ自体」であるのと同じ意味で「(言語によって)指されるものそれ自体」ではなさそう。まあ、音声言語/話し言葉は音そのものじゃないか_(一)参照_とも言える訳ですが、殊に「話し言葉以外の言葉」に接する機会が多い、というよりのべつ晒されっぱなしの文化圏では、実体から乖離した言葉たちとどう付き合うか/付き合わないかが問題になりやすい_「言語」でいきますと言ったハナから「言葉」と言ってみたりグダグダですがそのへんについても(〇)参照_。

 で、もともと言語には実体がないのかというと、私は、あるともないとも断言しかねる。

 例えば、「志ほ万」「猫」など「実体を伴う何か」を指す言葉がある一方で、「苺志ほ万」「チシャ猫」など「実体のない」対象しか指さない言葉があり_(二)参照_そこが言語の可能性であると同時に危険性でもあったりする。

「それ、本場でいただいたことがあります。美味しかった」

という発話の場合どうだろう。ほとんど実体(というかこの場合実体験)そのものだったりすることもあり得るが、その場合は、聞き手側の「信頼」または「共感」が必須条件となる。

 また、神秘体験というのか、宗教的/スピリチュアルのある種の実体験の場合、「指すもの」と「指される」ものの関係性が、階層を超えて一変することがある_私はそれを「言語アエティールの垂直上昇(または下降)」と呼んでいる_。例えば、「悟り」という概念、その状態、それを得た人などを言葉で整理するのは難しい。あるいは、最早そんなことに大して意味はない_私が「悟り」など話題にしたところで、何も指すことのない「シニフィエなきシニフィアン」を撒き散らしておしまいだが、「ダーラナー」になれば様相は一変する筈だ。とか言うてな_。ともかく、ほとんど実体そのものといった言葉があるのであり。

 そんな訳で私にとって、単純に「実体がある」とも「ない」とも言い切れない言語は、単純に「生命体だ」とも「生命体ではない」とも言い切れないが、時に(または常に)良くも悪くもとんでもない事象を引き起こすウィルスと「ほとんどいっしょ」だ。
 

(〇)言語あるいは言葉をめぐる無理ゲー


 該当項目を新明解国語辞典第八版から全文引用しようかと思ったが、長過ぎるので断念。かいつまんで言うと、「言語」と「言葉」はだいたいいっしょ。「言語」は『言葉の意の漢語的表現』とある。ちょっと「打合せ」が定例「会議」になったりキックオフ「ミーティング」になったりするのと似たような事情らしい。
 実際の用例に即して言うと、「言語」が体系_「日本語」「英語」「中国語」といった特定の言語のそれ_を指す場合が多いのに対して、「言葉」はその体系に属するパーツを指すことが多いようだ。主として「言語」系の文脈では、単体のパーツは「単語」「語彙」「ワード」などと呼ばれ_さらに細かい「音素」とかもありますが_、それらがいくつかまとまった単位は「句」「節」「文」あるいは「フレーズ」などと呼ばれる。

 で、それらは本当に「自由」なのかというと、これが相当怪しい。
 確かに、言語は「熱力学の第二法則」などの物理的制約も、「外為法」など経済活動上の規制も受けない。ただし、「矢追純一の定理_真偽のわからなさ加減は、話の大きさに比例する_」から逃れることはできない。そのため「大きな言語活動」は、否応なく無理ゲー化することになる。
 私たちにできることは?
「この電車、梅田へ行きますか?」
「はい、行きます」
「何コめで降りますか?」
「最後まで乗ります。梅田は終点ですから、途中で降りないでください」
「ありがとう」
といった、日常の「小さな言語活動」をつつがなく営めるよう、よろず清きに身を慎みつつ、隙あらば「それ」に挑み続けること!

(一)文字のない言語/音声のない言語


 地球上に何千と存在する言語のうち、文字を持っている言語は400程度とか(註)。残りはすべて「文字のない言語」だ。結構衝撃的な数字だった。私たちの知っているメジャーな言語には大抵「書き言葉」があるので、いつの間にかそれが当たり前と思っていたが、実際にはほとんどの言語は文字を持っていないことになる。
 反対に「言語のない文字」というものは存在し得ないが、「失われた言語に使われていた文字」というのはあるし、その文字の連なりから、失われた言語が解読≒復元されることがあるのはご承知のとおり。
 では、「音声のない言語」はどうか。まず、「手話」がこれに当たる。あと、広義の言語として「プログラム言語」を含めても良いかも知れない。余談だが、私は「名作プログラム朗読会」なるイベントに参加する夢を見たことがある。悪夢であった。

(註)
国立国語研究所編『日本語の大疑問-眠れなくなるほど面白い ことばの世界』幻冬舎新書,2021 p210参照

(ニ)シニフィアン/シニフィエの階層性

 私たちを取り巻く言語環境は、「一次情報」以外の情報に触れる機会が増える方向で変化してきた。この傾向は、特にネット上ではまだ続きそうな気配だ。
 直接「実体を伴うシニフィエ」を「指すもの」を「第一階層のシニフィアン」とすると、それを指す(直接には「実体」を指さない、つまり「実体」から一階層分遠い)言葉が即ち「第二階層のシニフィアン」となる。第二階層のシニフィアンを指す言葉が即ち・・・キリがない。こうして、最早何を指している/指していた/指そうとしていたのかわらないシニフィアン及びその使い手が蔓延することになる。
 さて、私は、このような階層化/実体から離れ何を指しているのかわからない言葉の蔓延を、一概に断罪しようとも嘆こうとも思いません。単純に直接繋がるのが良いのであれば、例えば常時接続アプリを巡るトラブルなど起こり得ない筈。まあ、常時繋がったからといって必要な一次情報のやりとりが加速される訳でもないけどね。

Love is not lovin'

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