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渡来事物と言葉の更新について

 新製品とか言ってしまうとあまりに限定的過ぎるので、渡来事物にしてみました。暮らしの中にそれまでなかった新しい事物が入ってくるとき、〈それを指す言葉も、一緒に入ってくる〉。または、〈従来からある言葉のひとつが、それを指せるように変化する〉。
 以下、学者が書いた学術書じゃない本_(1)参照_に書いてあった話_青木晴夫『滅びゆくことばを追って-インディアン文化への挽歌』岩波書店同時代ライブラリー版p66〜70らへんです_。
 専門的には、〈それを指す言葉も、一緒に入ってくる〉のが《旧語形廃止的新語追加型》で、〈従来からある言葉のひとつが、それを指せるように変化する〉のを《旧語形保存的語彙変化型》と言うんだそう。  
《旧語形廃止的新語追加型》に分類される日本語の場合、それまでなかった舶来マテリアルを指す《ビードロ》という《新語》が突然《追加》され、次に別ルートで進化形が到来すると《ビードロ》は廃止され《ギヤマン》が追加される。そして、《ギヤマン》は《ガラス》に。現在《窓ガラス》を拭いたり割ったりする人はいるが、
「窓ビードロが汚れてるじゃないか」
「しもた、窓ギヤマン割ってもた」
てな発話は聴いたことがない。
《旧語形保存的語彙変化型》であるネズパース語_ネイティブアメリカンの言語の一つ_の場合、《弓》_を指すネズパース語_という《語彙》がある日《鉄砲》_を指すネズパース語_へと《変化》する。あれ、じゃあ弓は何て言えば良いのかというと、これは《古い弓》_を指すネズパース語_と言えば良いそう。
 どちらも一長一短だが、2種類の言語それぞれにコミュニケーション上のナンギが生まれる。
 前者の場合、相手が何言ってるのかまったくわからない場合が出てくる。
「さて、今宵の酒器は土ものしようか、ギヤマンにしようか……」
「???」
みたいな感じで。
 後者の場合は、頓珍漢なやりとりをしていながら、当人たちは、話がまったく噛み合っていないことにすら気づかないまま事態は進み、え?そんな ! 今頃……。といった惨事が容易く想像される。
 とまあ以上の2タイプは、必ずしもパキッときれいに二分される訳ではなく、実際には、どちらか一方に偏りつつ、両方の特徴を併せ持つようだ。

 このように、いろんなナンギを生み続けている言葉だが、《それそのもの》と《それを指す言葉》の対応関係にもいろんなのがあり、その一つひとつにそれなりの理由がある_(2)参照_と思っている。

 安易ではあるけど、例えばweb2.0/3.0みたいなバージョン表示なんかも、暫定の惨事回避策ではあるかな。

(1)学者が書いた学術書じゃない本_論文には書けない部分_

 1972年10月に米国バークレーにて書かれた《まえがき》より引用:

……これらの論文には、勉強中に見上げた空の青さ、インディアンの昔話を聞いたときの鹿肉の焼けるうまそうなにおい、いろいろな人の親切、そういったものは書いていない。
 これは、今まで日本語で何も書かなかったこと、専門的なことしか書かなかったこと、その埋め合わせのつもりでしるしたものである。
(青木晴夫『滅びゆくことばを追って-インディアン文化への挽歌』岩波書店同時代ライブラリー )

 私が読みたいのは、単に〈読みたい〉だけじゃなく大切にしているのは、そういう部分なんだと思う。
〈学者が書いた学術書じゃない本〉の中に〈そういう部分〉を見出した最初の読書体験は、レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯/南回帰線』という2種類の日本語タイトルで同時に流通している本だった。
 驚いたことに、著者は確か、フィールドワークの中で自分が目撃/発見したことを誇るどころか、未だ人類としての現段階に留まる自分には手が出ないとか言っていて。この人、人間辞めたいんかな? とも。



(2)《恣意的》な筈の対応に《必然性》を見出す試み

  シニフィアン(指すもの)とシニフィエ(指されるもの)の対応について、ソシュールは《恣意的》であると言った。間違いじゃないんだろうけど……顰蹙を買うかも知れませんが、実は、そこにさほどの意味はなく、単に「いろんな対応のパターンがあるよね」程度の話なんじゃないの? と、思ったりもする。
 連想するのは、ジャズの巨人というか《聖人》ジョン・コルトレーンの
「私は聖人になりたい」
発言だ。インタビューが残っているらしいし、まあ、そう言ってないことはないんだろうけど……2023年現在、元ジャンキーのジャズマンがお茶目に発したフレーズを、極端に馬鹿シリアスに受け取る人は、最早ほとんどいない。んやないかな。

 ソシュールが《恣意的》であるとしたシニフィアン/シニフィエのさまざまな対応事例に、ある種の《必然性》を見出すゲームを続けていきたい。


 


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