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いまの「時代」を子どもたちに教えようとすると。

今度、近くの小学校で小学6年生を対象に「夢について」という講演をすることになった。

「夢」。
別に、今の仕事はもともと夢見ていてついたようなものではない。
むしろ、そこから外れて別の歩き方を見つけて、意外とそれが合っていたから続けている、というような側面もある。
そんな自分がこの話を受けて良いものか迷ったが、往々にして言われるように、やはり人によって捉え方というものは全く違うらしい

「夢」をどう見るか

昔、というか、自分が育ってきたような時には、まだ夢というものは具体的な職業につくことだったり、憧れ、に近いものだったような気がする。

少なくとも自分の中で、小学生の頃はそうだったと思う。
そこの見方から、今の子たちは違うのだと思う。

先生と一度事前打ち合わせを行ったが、「夢がない」子たちへどう声をかけたらよいか困るようだ。

今、特に夢はない。
だから、中学に行ってから夢を探す、というようなことを卒業文集向けの文章とかで書くらしい。

そうかあ、と思った。

共感とはまた違った感情で、でもそれは、どうやって探していくんだろう、ということを純粋に考えてしまった。

もちろん、環境が大きく変わり、思考も発達していく中で得ていくものは多いだろう。
自分自身が中学、高校、専門と全く違う環境でそれぞれに濃い時間を過ごしてきたので、そこへの期待は(持てるのであれば)持ってよいのだと思う。

でも、その「夢」という言葉に、何か陰りを感じた。
大人に気遣うような、成長してしまったがゆえの冷めた視線。
でもそんなものでしょ、とでも言いたげな言葉にならないその陰りに、どうにかできないかな、と思ってしまったのだ。

「好きなこと」の呪縛

「夢」=「好きなこと」という考えは非常にひも付きやすい。
それにシンプルだ。
誰だって、それを言うなら応援したくなる、気がする。

でも、その「好きなこと」を選ぶ段階で、すでに他人のフィルターがかかってしまっているのだとしたら。

本当に好きなものは、大人には、他人にはなかなか理解されない。
そうなると、それを夢として口にすることはためらわれるのかもしれない。

そしたら、それまでのものだったのかもしれない。
情熱が足りない、その程度のこと。
それでは大人になってから、続けられないのではないか。

また、「好きなこと」には、「好きで在り続ける」という意味も含まれやすいと思う。
これがまた、個人的にもとてもむずかしい。
距離感を間違えると、すぐに嫌になってしまいそうになる。

ただ、一度嫌になってもまた戻ってくることができればそれでよいかな、とも思うけど。

でもそのためには失敗を乗り越える力が、自分を見つめ直して立ち上がる力が必要だ。

夢を「作る」

「夢を探す」ということも、「好きなことを夢にする」ということも、どちらも自分にとっては、今存在している選択肢の中から、半ば無理矢理に答えを探し出す、そんな諦めを含んでいるように感じられてしまった。

だったらどうすればよいのだろう、と思ったときに、夢を「作る」ということが浮かんだ。

事前に思い浮かべている、いわゆる夢とは違うのかもしれないけど、それでも自分が望むもの、存在したいやり方を、もし自分の手で、誰かと一緒にでも、作り上げることが出来るなら、それは夢と呼んでも良いのではないか。

好きなことを夢、というものに近いものではあるのだろうけど、それだけではなく、得意なこと、ということも含んで良いのだと思う。

別に夢は仕事の話だけじゃないはずだ。
どう生きていくか。仕事も含め、それ以外のプライベートももちろん大事。
むしろ、そこの支えがないと仕事の方も弱くなってしまう、と個人的には思っている。

だからこそ、無理に仕事にしなくても良いんだと思う。
それでも、自分ひとりで何かを始めたり、形にしていくための努力が出来るようなツールがあれば。

そう思ったときに、これからの時代の「IT」というものが、とても広い意味でその可能性を持つな、と思った。

「IT」を専門にする必要はないし、別にそれだけで仕事をしなくてもいい。
でもこれから、そのツールが使えるか使えないか、というところは、否が応でも重要性を帯びてしまってきている。

だったら、少しでもそのツールを楽しんでもらい、可能性を感じてもらいたい。
そして、いつかそれを基に、自分の「夢」を作る人になってほしい。

そんなことを話せたら良いな、と思う。

#note書き初め

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