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私的ファッション史+いろいろ

PART 1.   1971〜72年( 昭和46年~47年)

中学校期 世の中

1970年代、昭和45年からの10年は僕たちの世代はちょうど青春を生きた時期でした。
世界では、1972年に14年半という長い間続いたベトナム戦争がようやく終わりました。戦争をするという正義も、イデオロギー戦争という大義も時間とともに崩れていきました。
いったい何のための、誰のための戦いなのか、わからなくなってしまい、
明日が見えなくなっていました。身体は傷つき、心は深い闇に陥ってしまっていました。しかし、そんな中でも、アメリカをはじめとした世界は新しい時代にむけて、どうにかして動きたくて、もがいている時代でした。夜明け前の静けさではなく、みんなの中にあふれるエネルギーを抑えられない高揚感と躍動感に満ちた時代でした。

そんな時代、1970年の幕開けを象徴するイベント、大阪万博が、開催された年です。僕たちは小学校6年生でした。
学校の遠足はもちろん万博でした。開催前からテレビでは ”万国びっくりショー” という番組や、三波晴夫大先生による ”世界の国からこんにちは” という歌がみんなの気分を煽っていました。アメリカ館の月の石、太陽の塔、お祭り広場とか、、博覧会がどういうものかわからないけど、子供達はメチャうきうきしていました。カナダ館の赤いメイプルリーフのピンバッジを野球帽(ベースボール・キャップとは言わなかった)につけて学校に行くのが僕たちの万博に行った証でした。
後に雑誌に載っていたのですが、万博の電気通信館のコンパニオンにあの天地真理さんがいたとか、、まぁ、デビュー前だったので、会っても
わからなかったと思いますが。。

71年、中学校に入学。当時、兵庫県の公立中学校は男子はみんな丸刈りで黒の詰め襟、制帽でした。丸刈りの程度を1枚刈り、2枚刈りとか言って、みんなカツオみたいな頭で、、、決してブルース・ウィルスみたいなスキンヘッドではありませんでした。
当然、おしゃれとは程遠い頭でした。。。。だから、外出の時はいつも学生帽を被っていました。


970年 夏休み 近所の友達と万博へ。ダイダラザウルスの前で。
男子はみんなテンガロンハットで。


知り合いのおじさんに、友人と姫路の書写山に連れて行ってもらいました。
公立中学の僕は2枚刈りに制帽、私立中学の友人は可愛いヘアスタイルで。


ファッション、夜明け前。

中学校1、2年生の頃はファッションはほとんど興味もなく、よくわりませんでした。だいたい母親に買ってもらった服を着ていました。その中にWranglerのジーパン(当時はジーンズをジーパンと呼んでいました)もあり、初めてのジーンズでした。裾は母親がスラックスみたいに折り返して
まつって仕上げていました (-_-;)
だた、中学1年の時に母の従妹のおばさんがNew YorkからVISAの書き換えで帰国し、うちの家に1か月いました。その時にお土産でTシャツをもらいました。それは ”FRUIT of the LOOM" のパックに入った T シャツ でした。
織ネームはフルーツが盛り合わせたようなすごく可愛いプリントがついていて、日本のT シャツ、下着とは違う、凄く素敵なものでした。そして、made in U.S.A.でした。何かアメリカのモノを身に着けて、とてもウキウキして、嬉しかったです。それが僕の初めてのインポートで、それを身に着けて、ちょっと気分が上がり、その感覚がずっと心と身体が覚えていたのかもしれません。
3年生の時に岡林信康さん、吉田拓郎さん、Bob Dylan、といったフォークソングを聴くようになって、その音楽とともに、アメリカン・カジュアルにとても興味がでてきました。IVY ファッションが主流だったその頃に、ヒッピー、モッズ、といったストリート・ファッションが出てきて、ファッションが音楽とシンクロして動き始めました。この時に僕のファッションが始まりました。ここからはPART.2で。

+いろいろ

音楽

歌謡曲が主流で、歌番組は大人のモノでした。しかし、天地真理さんの登場で初めて僕たちのアイドルが誕生しました。最初は新鮮で結構ファンで、、とにかく可愛くて、レコードも少ないお小遣いで買いました。
真理ちゃんシリーズの番組もできました。今、YOU TUBEで見るとゲストも毎回すごい人が出演していて、当時の真理ちゃんの人気のすごさを改めて感じました。まぁ、子供なので、そこは全然気にしてませんでしたが。
また、いろいろなグッズも発売され、すごい人気でした。ちなみにピンクベースの真理ちゃんの写真の下敷きは高校卒業まで使っていました。


1971年の発売の時に買ったものなので、かなり経年劣化しています(-_-;)


テレビの ”時間ですよ” という番組で、お風呂屋さんの屋根の上で堺正章さんがギターを弾いて、二人で ”街の灯り” を歌っているシーンはとても可愛くて、素敵でした。ちなみに真理ちゃんは白いギターでした。
しかし、その頃、ラジオの深夜放送で聴いたフォークソングとの出会いで、彼らは与えられた曲を歌っているのではないという事を知りました。
自分で作った曲を自らギターを弾いて歌うという事、自分の思いを音楽でみんなに伝えるというものでした。
そんなムーヴメントは一気に若い人に拡がっていきました。
CMでもフォークソングを使うようになり、世の中が新しいムーブメントを受け入れ始めました。

ボーリング

日本初の女子プロボーラー 中山律子さん、須田開代子さんらが登場し、大ブームになりました。TVドラマでも新藤恵美さん主演の”美しきチャレンジャー” という女子プロボーラーの物語です。主題歌も新藤恵美さんで、かなりカッコいい歌です。
どうでもいいですが、今でも歌えます。🎵レーンにとどろくピンのおと~、私は投げる🎵

漫画

この時代は、週刊の漫画雑誌の創成期で、現在の漫画の基礎ができた頃かな、と思っています。
小学校に入った頃、1964年くらいから、少年マガジン、サンデーは9歳上の従弟が読んでいたので、僕もおさがりを毎週もらって読んでいました。
70年は少年ジャンプが創刊され、永井豪先生の”ハレンチ学園”が連載され、スカートめくりが小学生の間で大流行しました。トレンド・セッターであった僕も先頭をきってやっていました。当然の事ながら、先生に立たされ、めちゃくちゃ怒られました。
中学に入った71年は少年チャンピオンが創刊され、永井豪先生の”あばしり一家”が連載されていました。これは女性のバストを少年漫画で描いた画期的な漫画でした。永井豪先生のことは月刊漫画雑誌の ”ぼくら” で ”アラーくん”という作品で初めて知り、子供なりにファンになりました。
永井豪先生の作品についてはまた、時代毎に話したいと思います。

歌謡曲では69年に月亭可朝さんが”なげきのボイン”をリリースし、80万枚という爆発的なヒットになりました。この数年は女性のバストがブームでした。

プラモデル


69年 TAMIYA MMシリーズ発売されました。海外のプラモは1/32が主流でしたが、1/35という独特のスケールでした。2006年田宮社長へのインタビューの記事がありますので、興味のある方は見てください。

お年玉でタイガーⅠ 型、ドイツ戦車兵セットを購入。

さすがに50年以上前で、実家にもなく、画像はアマゾンのサイトからです。
こちらも同じく、画像はTAMIYAさんのサイトからです。


その後、趣味として2度ほど、休憩をはさんで、1995年の阪神大震災の時に終了しました。


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