見出し画像

仏教美術の目的は何か。


小学6年生の修学旅行は奈良と京都に行きました。当時は全く仏像に興味がなかったので、仏像の何を見ればいいかわからず「法隆寺の七不思議」とか、そういうオカルト的なことを調べて修学旅行のしおりを作っていました。


「仏教美術」と聞くととても堅苦しく聞こえますが、一番初めに仏教美術について学ぶ場面は小学校5年生の社会での授業が多いと思います。法隆寺や聖武天皇が作らせた奈良の大仏など「仏教美術」と言う名前ではありませんが小学生の頃から触れています。

「これらのお寺や仏像はなんのために作られたのか。」


小学校では

「天災が起きている世を仏の力で救うため」

と紹介されていますが、本質は少し違っています。


そこで、今回は「仏像はなぜ作られたか?」を深く見ていきます。


1.観想という行為

最初に簡単に結論から書いていきます。

仏教美術の目的は、

『仏像も、寺院も、仏画も、仏具も、全てお釈迦が悟りを開き、到達した世界を追体験するために必要だったアイテム』

です。仏教修行の最終は成仏です。各国の文化によって異なりますが日本では「極楽浄土への転生」を指します。

「お釈迦様が到達した世界に自分も到達したい」「死後は極楽へ行きたい」その手助けになるものが仏像や寺院であり、まさに極楽浄土を現実世界に再現したものです。

では、どうして仏像や寺院が死後に極楽浄土へ行くのに必要なのでしょうか。


ここで大切になる概念がタイトルにもある「観想」です。

言い換えると「イメトレ」です。

「仏の世界にはこのような宮殿があって、仏様の大きさはこれくらいで、仏のお顔はこんな感じで…」と言うようにイメージし、最終的に自分がそこへ生まれ変わるイメージを獲得します。そのイメトレを助けるものが仏像、お寺です。頭の中でイメージするだけでは現実味湧きませんよね?なので、極楽浄土を模した仏像、寺院、仏画、仏具が必要だったのです。

仏の世界が鮮明になればなるほど、自分が死後、どんなところへ行くのかが明確になり、無事に極楽へ行けると言うわけです。

そのため、小学校で習う「仏の力で世の中を救うため」のような現世利益のような目的とは異なります。


2.観想をもう少しだけ詳しく

もちろん極楽浄土へ行くには仏像やお寺を見るだけではいけません。仏像やお寺はただの手助けアイテムです。極楽浄土へ行くには「観想」が必要です。観想を通してより細部まで仏をイメージしていきます。イメージする内容は経典などに書かれています。

例えば、大日如来、薬師如来などの「如来」32種類の身体的特徴と80種類の表情をイメージしなければなりません。そして、如来の仏像、仏画にもこの32種類と80種類の如来の要素を考慮して制作しなくてはなりません。1つでも欠けると正確にイメージできなくなてしまいますからね。(時代が進むごとに曖昧になっていきますが…)それを足の裏から頭の先へと順番に観想していきます。

例えば、阿弥陀如来の観想内容の一部では、

阿弥陀如来の高さは六十万億那由多恒河沙由旬である。眉毛の白毫(眉間にあるやつ)は右に向かって旋回して渦を巻、須弥山(仏が住む山)を5つ重ねた大きさである。仏の眼は、四大海の水のように広く深く、清らかに白く、明瞭である。…(『大正蔵』)

と言うように事細かく記されています。

お寺に関しては例えば平等院鳳凰堂は『観無量寿経』に記されている十六観(16つ)の極楽浄土の様子を現実世界に忠実に再現しようとしたものです。

このように、お寺や仏像は観想の際に極楽浄土をより鮮明にイメージしやすくするためのものだったわけです。いかに当時の人々が極楽浄土へ行くことを願っていたかがよくわかります。戦乱も多い時代だったのでせめて死後は安心した場所で暮らしたかったのでしょう。

一言に「仏の力で世を救うため」とは言っても、その裏には切実に正しい死を願う当時の人々の思いが込められています。


そんな「観想」の観点から仏像を見ていくと少しだけ仏教美術を見る目が変わる気がしませんか?







この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?