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セルフコントロールの方法 『霊訓 第七回(※長文注意)』

 

第七章 興味と関心のコントロール


 

――何世紀もの間、われわれは学校の教師や権威者、書物や聖者の教えによって育て導かれてきている。われわれはいう、「あの丘や山や陸地の向うには何があるのでしょうか、本当のことを全部教えて下さい」と。そして彼らから与えられた説明に満足し、教えられたとおりに生きてゆく。だが、その人生は浅薄で、しかも空虚なものにすぎない。――

『自己変革の方法』クリシュナムーティ著  十菱珠樹訳 霞ヶ関書房刊より引用

 

 スマートフォンの普及によって、私たちが受けとる情報量は飛躍的に増えました。例えば自分の抱えている病気について知りたいことは、すべて手元で検索することができます。わざわざ図書館に出向いて専門書をあさるようなことをせずとも、効率的に専門的な知識を得ることができるので、今では誰もが玄人はだしの知識を持っています。
 食べ物に関することでも同じことが言えます。身体に良くない添加物や、逆に望ましい効果のある栄養成分が含まれている食品もすぐに調べることができます。
 ですが、これらの豊富な情報は果たして私たちを本当に幸せにしてくれているでしょうか? ここでは食べ物の事を例にとって考えてみましょう。
 「食べる」という行為に無関係な人はいません。その為、私たちの食に関する関心はとても高く、特に摂取する食材が美容と健康、精神状態に影響を及ぼすため、老若男女の誰もが食事には注意を払います。
 本屋に行けば様々な国の調理法やおしゃれな調理器具についての本が平積みになって並んでいますが、その中には危険な食品添加物や、ダイエットにまつわる本もかなりの量が置かれています。
 手にとって見てみると、有名な大学の博士号を取得している人や、著名なインフルエンサーの名前が軒を連ね、それぞれに説得力のある論拠をもって健康についての持論を展開しています。
 ですが、何冊か見ていくうちに私たちはおかしなことに気付きます。誰かが推奨する説は、他の誰かが否定していたり、数年前に書かれていたことは実は間違っていて、最新の研究によって新たな事実が判明したり、以前には一切触れられていなかった危険物質が次から次へと出てきたり……。
 結局、あれこれと情報を見つければ見つけるほど、何が本当に正しいのか分からなくなってしまう。こんな経験はありませんか?
 ひとつの情報に権威を認めると、私たちは自分が権威を与えたものによって束縛されてしまいます。次から次へと情報を手にすることによって、情報は制約となり私たちは身動きがとれなくなってしまうのです。
 これは単なる健康の話だけにとどまりません。私たちは生まれた瞬間から地域社会の影響を受けます。生まれた国、宗教、育てられた家庭や学校で教えられたこと、これらを鵜呑みにして成長することを、社会は歓迎します。そして、私たちは幾世代にも受け継がれてきた、いつかは大嫌いだった筈の大人が持っていた考え方を自動的に自分の子供に教えることになるのです。これは欲望―思考エレメンタルによって無意識に生きることで繰り返される悲劇です。
 ではどうしたらこの連鎖を止めることができるのでしょうか?
 私たちは思考―欲望エレメンタルを作ることを知りました。思考―欲望エレメンタルは欲望によって作られたエレメンタルよりも強い働きをします。したがって、意識的に思考―欲望エレメンタルを作る習慣(理性的に考えること)を身に付けることで、私たちはこれらの束縛から自由になることができるのです。
 危険な食品添加物や、農薬等によって汚染された食べ物が溢れているように本には書いてあります。それはそれで事実として認めないわけにはいきません。ですが、こういう言葉があります。
 ――口に入るものよりも口から出るものに気をつけなさい。
 これはキリストの言葉ですが、その意味は、私たちが食べるものよりも、自分が作り出すエレメンタルのほうがよほど心身に害を与えるのだから気をつけなさい、という意味です。
 私たちは生活をしているなかで日常的に幾分かの毒性物質を接種していますが、人間の肝臓や腎臓には浄化作用が備わっていますので特に問題にならずに済んでいます。ですが、この浄化作用を妨げているのもエレメンタルの働きに負うところが大きいのです。
 エレメンタルは一度作られると、私たちから離れて欲望を満たすように働きます。そして、私たちがその事を忘れかけると前より強力になって戻ってきて私たちの身体からエーテルバイタリティを奪います。禁煙や禁酒が難しいのはこのためです。エーテルバイタリティを大量に奪われると私たちの身体の臓器の働きを維持するための分量まで失われてしまうため、心身に害が出てくるのです。
 エレメンタルは私たちの興味と関心から作られているので、私たちがその事柄から興味をそらさない限り、エーテルバイタリティを奪われ続けることになります。ですので、たとえば病気の人が過剰に自分の病気について調べ続けるようなことはしてはいけません。そのようなことをしても良い結果は得られません。
 情報が得られない不安を解消したい気持ちは良く分かります。ですが、病気の悲観的なエレメンタルを作ってそれにエネルギーを与え続けることの方が危険なのです。
 欲望のエレメンタルは、私たちの生活のなかで常に語りかけてきます。一緒に遊ぼう、と手をひく子供のように私たちの興味をひこうとしてきます。エレメンタルと遊ぶことは、とても魅力的です。ですが、その表面的な姿の裏には恐ろしい悪魔が潜んでいることを知ってください。
 エレメンタルから興味と関心をそらすことに成功すれば、エレメンタルは弱体化して眠りにつきます。そうすれば、本来私たちに備わっている浄化作用が、体内に取り込まれた毒性の物質を排出する力を取り戻します。余計なエーテルバイタリティを使わないようにすることが大切なのです。
 私たちが日々何をするにもエーテルバイタリティは使われます。このように情報と刺激の多い時代ですので、それらを受け取るのにも自分をコントロールしなければいけません。そして、できるだけネガティブな感情を持たないように努力しなければいけません。ネガティブな感情はエーテルバイタリティを大量に浪費してしまうからです。
 そしてもっとも大切なことは必要以上に心配しないことです。あなたが恐れているようなことは起きません。起きるとしたら、自分でその状況のエレメンタルを作ることにエネルギーを注いでいるから起きているのです。だから、仕組みが分かってしまえば怖がることはありません。
 もうひとつ、私たちがぜひ知っておきたい言葉をご紹介します。

 

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥を良く見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意してみなさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日には炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

新約聖書 新共同訳 マタイによる福音書 6-25



 神は私たちが必要とするすべてを用意して下さっています。恐れを捨てて、すべてを神に全託すれば何一つ心配することはありません。きちんと前向きに努力していれば必要なものは工面して下さいます。金策さえも手伝って下さいます。私たちがすべきことは、何が必要で、何がそうでないかを見極めることです。
 実は、私たちが生きていく上で必要なものはそれほど多くはありません。必要だと思っているものでも、なければなかったで特に困りはしないのです。試しに、自分が日常生活で必要だと思っているものを一ヶ月だけ絶ってみてはいかがでしょうか。肉食をやめてみる。テレビを見ないようにする。スマートフォンを使わない。
 試してみると、意外とできるものです。そもそも、スマートフォンなど無くても私たちは何不自由なく生きていたのです。それができないわけがありません。そして、こうした経験をすることで、今まで日常にあって気づかなかった素晴らしい宝物を見落としていたことに気づくことになると思います。
 何が必要で、何がそうでないか。それはあなたが決めることなのです。あなたが決定権を持っているのです。
 そうして様々な不要なものを持たなくなった時、あなたはその快適さに驚かされることでしょう。持たないものこそ、最も豊かなのです。

第八回へ続く

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