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不安に打ち勝つ 『霊訓 第六回(※長文注意)

第二部 応用編


 さて、第一部では私たちが何者で、どこから来てどこへ向かっているのかを学びました。病気になる原因もわかりましたし、自分をコントロールすることの大切さもわかりました。そして何より、死というものが存在しないことがわかりました。
 真理の教えはとても深淵で、一朝一夕には理解することはできません。ですから、私たちは少しずつ毎日の日々を送るなかで自らの考え方や行動を観察して反省しながら真理に対する理解を深めて行くことが重要です。机上の知識を実践によって確かめることで、知識を知恵に変えて行きましょう。
 第二部は応用編です。これまでに得た知識を使って日常生活に活かしましょう。より良く生きるために、先人の知恵を借りて学んでいきます。

第六章 信じることの効用


 病気や生活上の悩みで苦しんでいる時、心に不安を持つなというのは難しいと思います。例えば自分の病状は良くなるのか、それとも悪化するのだろうか。あれこれと情報を集めているうちに、ネガティブな情報を見つけてしまい、どんどん不安が増してしまうこともよくあります。
 誰も自分の不安をわかってくれないし、話したところで完全に理解してもらえることも期待できません。孤独を感じるのはまさに辛いことの最中にある時です。
 しかし、そんな時こそ私たちが心掛けなくてはならないことがあります。それは、自分自身の意思の力で不安を克服することができるという事です。重たい石を動かすときのように最初がいちばん大変なのですが、いざ動き始めれば無数の援助の手が私たちを手助けしてくれるようになります。
 私たちは、日頃から霊界からのインスピレーション、導きを受け取っています。第一部で放蕩息子が家に帰ることを決意したその時から、霊界の導きを得られるようになる(道が開く)とお話ししました。
 私たちが何を選択するか、それは私たちの自由意思に従って決められます。しかし、その決断に至るまでに私たちは様々な影響力を受けて判断を下しているのです。
 本書の冒頭でもお話ししましたが、たまたま手に取った本で開いたページに、ちょうど悩んでいた問題を解くヒントが書かれていたというようなことがあります。
 それはただの偶然だとおっしゃる方もいると思います。ちょっと待ってください。では、偶然とは何なのでしょうか?
 辞書で調べてみると、何の因果関係も存在せずに起きた物事の事を偶然と呼びます。しかし、思い出して下さい。私たちは原因と結果の法則を学びました。これは真理を学べば学ぶほど実感することなのですが、神の摂理の働きは私たちが理解している以上に完璧です。それ相応の原因がなければ、結果は絶対に起こらないのです。「偶然」とは、ただ単にその原因に気付いていないだけのことなのです。
 それを踏まえた上で、先ほどの例に戻って考えますと、原因と結果の順番が逆であることに気付きます。あなたが、たまたま本を手に取ったから問題を解決するためのヒントが得られたのではなく、あなたが問題に悩んでいることを知っている「誰か」が、その本を手に取るように仕向けたから、あなたがその本に手を伸ばしたのだと考えることができます。
 あるいは、あなたがその問題の解決を視覚化(イメージ)したために、あなた自身が作ったエレメンタルの働きによって問題を解くヒントにたどり着いたのかもしれません。
 いずれにしても、すべての物事には原因が必ず存在することを認めることが大切です。物事が何の脈絡もなく発生するようになれば、私たちはどのように生きれば良いのでしょう?
 太陽は毎日同じ方角から昇って、大空を横切って沈みます。ある朝太陽が2つ昇ってきたとしたら大騒ぎになりますが、そのようなことは人類の歴史上起きたことはありません。オレンジの種からメロンは生まれませんし、子猫は大きくなってもライオンにはなれません。
 摂理は完璧に働きます。そこには一切の綻びはありません。
 実はこれこそが不安をはねのけるための一つ目の鍵なのです。一旦そう認識すると、私たちは必要以上の不安を抱える必要がなくなることに気がつきましたでしょうか?
 起こり得ないことは絶対に起こりません。何の根拠もなく我々を害する何かがやってくる可能性は皆無なのです。もしも何かしらのよくない出来事が起きたとしても、それは原因と結果の法則が働いて自分が過去に犯した間違いの返済が来たのだな、と納得することができます。
 理不尽に不幸に見舞われているわけではないのだと分かれば、返済を済ませた分だけ身軽になったのですから、これは決して悪いこととは言えないと思うのですが、いかがでしょうか?
 でも、自然災害などの突発的な不幸に対してはどう考えれば良いのですかとお尋ねになる方もいらっしゃると思います。私自身は何もしていなくても、容赦なく災害は襲ってくるではないですか。そうお思いになる気持ちはよくわかります。
 ですが、ここでも原因と結果の法則が理解できていれば、自らのカルマを清算するために、自然災害を利用していわば「一括返済」をしたと捉えることができます。あるいはカルマによらなくても、人生に必ず起きるイニシエーションと呼ばれる試練を乗り越えるチャンスなのかもしれません。
 実は、必要なく起きる災害はありません。これは受け入れがたく思われる方も多いとは思いますが、時として地震などの巨大災害は人類の啓発のために発生することがあります。この日本でもまだ記憶に新しく残っている災害が多くあります。
 これらの災害は非情で、残酷にしか思えないかもしれません。ですが、思い返してみて下さい。こうした大災難を経験した時の人間の強さ、美しさは平時に比べてとりわけ強く輝きます。無情な死を間近に経験することで、霊的な世界への関心が非常に高まります。
 このようなことも、神の計画の一部と言えるでしょう。そして、このような大災害によって多数の帰幽者が出るような時は、霊界側でも大規模な救済が行われます。例えばタイタニック号が沈没した時の、霊界側から見た記録が残されています。
 事故が起きた時に乗船していたウィリアム・ステッドという、地上で記者だった人が霊媒を通してメッセージを伝えてきた記録は『ブルーアイランド』という本に纏まっています。この方は生前からスピリチュアリズムの重要性を熱心に説いていた方で、生前から自身の自動書記によって『ジュリアの通信』を刊行しました。他界後、他にも『ステッドの通信』など信憑性の高いメッセージを遺してくれています。
 『ブルーアイランド』によれば、タイタニック号が沈没したあと、亡くなった人々はひとところに集まり、そのまま空間ごと、まるでエレベーターに乗っているように天空へと上昇して霊界へと運ばれます。人々は不安と事故のショックで呆然としながらも、直感的にそこが安心できる場所であることを悟ります。
 そして、たどり着いた場所はあまりにも美しく、それぞれの案内者が出迎えてくれ、銘々自分が進むべき所へと進んでいきます。
 しかし上記のような事を知ったとしても、だからといって自然災害への恐怖を捨てられるわけではないと仰るでしょう。そこで、二つ目の鍵を取り出しましょう。
 思い出して下さい。あなたは死なないのです。地上にいる間は死を恐れる人がほとんどでしょう。ですが実相は違います。死とは暗く冷たい牢獄からの解放であり、この重く薄暗い地上からの脱出なのです。ここでも原因と結果の順序を取り違えているために、私たちは恐怖を感じています。私たちは見えざる世界から生まれ、この地上という死の世界に旅をしに来ているのです。本来私たちが暮らす世界は、私たちが死後の世界と呼んでいるところです。
 死を体験した後、数多くの人がこれまでにメッセージを送ってきてくれました。その誰もが、口を揃えてこう言います。もう地上に戻りたいとは思わない、と。
 そして、三つ目の鍵。これがいちばん重要です。
 何より「苦難」はあなたの中のキリストを輝かせるための手段なのです。人は苦難を乗り越えたときに一段と大きく成長します。これらの経験によって私たちは清められていくのです。
 どうか不安に打ち勝って下さい。恐怖と不安は、霊界からの支援の道を閉ざしてしまうのです。そして体の中で物理的な悪影響を及ぼします。これが不調和の状態です。
 恐怖に実体はありません。それは私たちの心の中だけに存在するのです。私たち自身が作り上げた幻影でしかありません。それを証拠に、同じ物事に対面しても恐怖する人としない人がいるでしょう。
 無知は恐怖を生みます。知識は恐怖に打ち勝ちます。ですから、知識を得ることで私たちは恐怖からの解放を手にするのです。
 死ぬことは怖いですか?
 知識を得たとしても、まだ恐れていますか?
 なぜ疑うのでしょう? 私たちはこのように科学的な裏付けまで用意された真理を手にしたというのに、どうして疑うのでしょうか?
 どうかじっくり考えてみてください。
 なぜ私は疑うのかと。

 

信仰とは何でしょうか。

 神に対する信仰があれば、何も恐れることはありません。どんな時でも神はあなたを見守り、共にいて手を繋いで下さいます。神がついているのです。何を恐れることがあるでしょうか。
 ですが、根拠のない盲信は砂上の楼閣です。ただ信じているというだけのことは、誰かに反論されれば簡単に崩れ去ってしまいます。
 ですから、知識と科学的根拠に基づいた信仰を持たなければいけません。そのために霊界側と地上側、双方の科学者たちが心血を注いで研究を行ったのです。
 では、科学的とはどういう意味でしょうか?
 特定の条件下で再現可能な事物を科学的と言います。そして偏りのない視点で観察し、物事の変化の背後にある因果関係を見つける事を科学と言います。
 学校で学んだことを思い出してみましょう。私たちは水が水素と酸素で成り立っていることを知っています。電気分解することによって性質の異なる水素と酸素に分離し、それぞれの性質の違いによって起きる爆発、あるいは燃焼という反応によってそれが事実であることを理解しました。
 この実験を行うためには水に電気を流すために媒体が必要であるため水酸化ナトリウムを加えます。そして電気を流すと陰極と陽極にそれぞれ水素と酸素とに分離する性質があることを踏まえた上で、気化したそれぞれが混ざりあわないようにH字管という器具を用いて条件を整えます。
 このように、物事の真実を確かめるために知恵を絞ってそのための方法を考えだし、冷徹な目で観察して確信を得るのが科学です。今から150年前、自然科学が偉大な進歩を遂げた時代に生きた人たちが、死後の世界の有無について同じように考えなかったとは思えません。
 私たちは教科書に載っていることならと、無批判に信じてしまっていませんでしょうか。無意識のうちに盲目的に権威を認めているのではないでしょうか。もしもそうだとしたら偏見によって狭められたそれ以外の事を拒絶してしまい、そのためにこれまで多くの恩寵を逸してきたのではないでしょうか。
 食卓の準備はすでに整っているのに、私たちの目は見えず、耳は聞こえなかったのだとすれば、それはとても残念なことです。

 イエスは重要なヒーリングを行う際には特定の弟子を選んで同席させました。なぜそのようなことをしたのかと言えば、信仰心の厚い彼らが近くにいることでヒーリングを助ける役割を果たしたからです。
 これとは逆に、二十世紀においても霊媒現象が起こる時、出席者の中に疑念を抱いている人がいるとよい現象が得にくかったと言います。このように、疑念は霊力の働きを阻害することが分かっています。逆に強い信仰心と調和がそこにあれば、私たちは霊界からの援助を最大限に受け取ることができるのです。
 援助とは、あなたの傍で正しい道選びを手助けしたり、あなたの成長にとって不必要な災難を避けるように誘導することで、霊性の進歩が順調に運ぶよう働きかけてくれる事です。具体的には、人との縁を結んだり、職場をコーディネートしたり、住むべき場所に誘導するなどをしてより良い方向へと進めるように計らってくれます。
 なぜそのようなことが可能かと言いますと、実は私たち人間は送受信ができるラジオ局のような機能を備えているのです。善意、悪意などの思念を受信し、そして自らも思念を発信することができます。これは誰もが日常的に行っていることなのです。
 一緒にいて穏やかな気持ちになれる人もいれば、なんだかせかせかして、こちらまで落ち着かない気持ちにさせられてしまうような困った人もいます。これはその人の想念(エレメンタル)を受け取って、その影響を受けているのです。
 そして、注目すべきは自らの心境の程度が高尚であればそれに見合った波長を受信することです。逆にネガティブな想念を発していれば同様のネガティブなものを自動的に引き寄せます。
 ですから不安を持たず、前向きで明るい気持ちを保つように努めることがまず第一に取り組むべき方法なのです。

第七回に続く

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