正しい考え方とは 『霊訓 第八回(※長文注意)』
第八章 正しく考える~エクササイズと内省~
私たちが無意識のうちに受け入れてきた習慣を数え上げてみれば、その数の多さに自分でもびっくりしてしまいます。
私たちは日本人ですので、大抵の人は死んだら戒名を貰ってお墓に入ることが普通だと考えると思います。そうしなければ成仏できないと信じている人もいるでしょう。皆さんも一度は考えた事があるかもしれませんね。こんなこと、本当なのかしら、と。
答えとしましては、信じる人にとっては本当のことです。信じていない人にとっては本当ではありません。
第一部で人は他界したのち、自らが作り上げた想念の世界へ進むことをお伝えしました。生前に自分が死んだらこういうお弔いをして貰わなければ浮かばれない、という信念を作り上げていた場合、「こういうお弔いをして貰わなければ浮かばれない世界」に行くことになりますので、それが真実になります。
お父さん、こんなのは嘘だから家ではもうお葬式なんてしないよ、等と勝手に決めてしまってはいけません。ご本人の意志を尊重することが大切です。
浦上四番崩れという事件を御存じでしょうか。隠れキリシタンの方たちが江戸時代の末期に当時禁教であったキリスト教の信仰を表明したことで、幕府によって大規模に弾圧された事件です。
江戸時代になってキリスト教は禁止され、宣教師もいなくなった後に残された信徒たちは伝承によって細々と信仰を続けていました。キリシタンであることを隠すために江戸の長い時代を口伝で乗り越えたのですが、ついに信仰が発覚し棄教を迫られることになりました。
この時、多くの人が棄教を拒み処断されました。なぜ、彼らは苛烈な拷問から逃れる道を選ばずに信仰を守ることを選んだのでしょうか。これらには多くの記録が残されています。その証言のひとつの概要はこのようなものでした。
――私たちは先祖から代々受け継がれてきた信仰を守ってきました。(国がそうしろと言うので)仏式で形だけの葬式をしたあと、自分たちのやり方で弔いをしました。そうでなければ私たちは天国へ行けないからです。――
実際のところ、江戸時代も過ぎた頃の「カクレキリシタン」と呼ばれる方々は自分達が何を祭っているのか分からず、儀式の時に唱える言葉も元の意味は失われ、禁教が解かれる頃には意味不明な呪文となっていたとのことです。しかし祖先が大切にしてきた教えを破ることに対して申し訳ないという気持ちと、もしもこの信仰を捨てればたたりがあるのではないかと思うと恐ろしく、それで棄教しなかったという人も少なくなかったようです。
死んだらどうなるのか、それが分からないためにこれまで多くの人々が根拠もなく受け継がれてきた事を信じ、分からないがゆえにないがしろにすることもできずに束縛されるような状態が続いて来ました。
ですが、今の私たちには実際に死を体験した人々の多くの証言を手にすることができます。そして、それらの証言が真実であるかどうかも自分の理性を使って判断することで確かめることができます。
例えば、どなたか一人、心から信頼できる人を思い浮かべて下さい。
そして考えてみてください。なぜ私たちはその人を信頼できると信じているのでしょうか?
どんな人にでも誠実な態度をとっているからでしょうか。
嘘をついた所を見たことがないからでしょうか。
約束は必ず守ってくれるからでしょうか。
私たちはこのように、一つ一つの断片からその人の全体像を把握します。もちろん実際にはその人のすべてを知っているわけではありません。しかし、実を見て木を知るという言葉があります。私たちはレモンの木に葡萄がなることはないことを知っています。これは、物事の真贋を判別するのも同じことです。
私たちには情報を比較して判断し、評価する能力が与えられています。この評価を歪めてしまうのがエゴイズムの働きです。
恐怖や不安、欲望が判断を歪めてしまい、私たちを惑わすのです。
ですから、理性的に考えて公正に判断する能力を磨かなければいけません。自分の中にある偏見や固定観念をぬぐい去る努力が必要です。
そのためには「これは本当に私が思っている通りのものなのか」を疑うことが大切です。
イエスは自分の故郷や身内の者には受け入れられませんでした。なぜでしょうか。
――俺はあいつを知っている。大工の倅じゃないか――
せっかくのイエスの言葉も、ただの大工の息子が何だか難しそうな事を言っている、くらいにしか受け取られなかった事が想像できます。
偏見と固定観念によって、あるがままを見ることができず、みすみす人生の宝物を逃してしまうなど、本当に勿体ないことです。ですから私たちは常に目覚めていられるようにしなければいけないのです。
その為に、ダスカロスが教えてくれた(キリストが伝えた)エクササイズがあります。
朝、目を覚ましてから慌ただしく動き出す前の15分間を、エクササイズに充てる習慣をつけることをお薦めします。これをまずは一ヶ月続けてみてください。そして、自分の心と身体に何らかの良い変化が訪れているかを確かめてみてください。ダスカロスのエクササイズは安全で、かつ効果が2000年に渡る検証で実証されているものです。これ以外の方法はお薦めしません。
楽な姿勢で背筋を伸ばして座ってください。あるいは、横になっても構いません。
深呼吸をします。息は鼻から吸い込んで、口から吐き出します。この時、息を吸うときは光を吸い込んで、吐き出すときには黒い霧状の不純物を吐き出すようにイメージします。
次に、身体の各部位を感じます。頭の上から足の爪先まで、意識を移動させながら感触を感じてリラックスするようにします。
足の裏に意識を集中させます。
そして足の裏から白い光が入ってくるイメージを作ります。それと同時に光が足を昇ってくる感触を感じます。人によっては足がむずむずしたり、温かく感じますが、問題はありません。
白い光はだんだん上に昇ってきて、膝を通り、太ももを通って骨盤まで包み込みます。
そして、あなたの足が完全に健康であるように祈って下さい。
次に意識をお腹に移動させて、感触を感じます。臍を中心として生殖器の下から鳩尾までをスカイブルーの光が包むようにイメージします。
あなたの身体が完全に健康であることを祈ります。
(スカイブルーの光のイメージを保ったまま)
その次に胸に意識を移動させて、感触を感じます。この時、心臓に意識を向けないように気を付けてください。心臓ではなく、胸全体を感じます。そして、ホワイティローズ(白みがかったバラ色)の光が胸を中心として喉の下から鳩尾の辺りまでを包み込むようにイメージします。そして、あなたの心が平安であるように祈ります。
(ホワイティローズの光のイメージを保ったまま)
続いて、あなたの肩から白い光が入ってくるようイメージします。光は肩から肘へ、肘から指先まで移動します。その感触を感じて下さい。
あなたの両手が白い光に包まれました。その手は人の涙を拭うための手でありますように。人を助けることのできる手でありますように、と祈ります。
次に、喉に意識を移動させます。
喉にはオレンジの大きさと色をした光をイメージします。この光は甲状腺を浄化し、あなたの身体を守ってくれます。再び、あなたの身体が健康であることを祈って下さい。
意識を頭に移動させます。
頭を感じて、頭から20センチほどはみ出す大きさの、カナリアイエローまたはホワイティゴールドの光をイメージして下さい。そして、理性的に考えられるように祈って下さい。
(カナリアイエローまたはホワイティゴールドの光のイメージを保ったまま)
最後に、身体全体を包み込む白い卵形の光をイメージします。
この光は今日一日、あなたを邪悪なエレメンタルから守ってくれます。
そして深呼吸をして、自分の肉体を感じます。これで終了です。
この一連の流れで10~15分程度になります。気を付けないといけないのは、長くやり過ぎないことです。私たちは植物と同じで、毎日少しずつしか成長できません。水をやり過ぎると枯れてしまうのです。
光のイメージがうまくできなくても諦めないでください。慣れないうちはその光があるつもりになるだけでも結構です。
ダスカロスのエクササイズは、ダスカロスの著書の『エソテリック・プラクティス』や、ダスカロスの娘であるパナヨッタ・セオトキ−アテシュリ女史の著書『光界への門』で詳しく説明されていますので、興味のある方は調べてみて下さい。
瞑想に関する本はたくさん出版されていますが、実は危険なものもたくさんあります。特に長時間何も考えないようにして瞑想する方法は危険ですので、絶対に行わないようにして下さい。
肉体は私たちを守ってくれる城です。そのような瞑想は門を開け放って詐欺師や強盗を招いているようなものです。
エクササイズをしていると、潜在意識から色々な思いが浮かび上がってきます。これは普通のことですので、気にせず受け流すようにして下さい。もしもうまく集中できないようでしたら、エクササイズを録音して誘導すると良いでしょう。
エクササイズは太陽が上がっている日中に行うようにして下さい。特に朝起きたばかりの時は自己暗示がかけやすい時ですので、この時に行うことをお薦めします。
神と一体化した状態から離れた、物質でできた私たちが住むこの世界を分離の世界と呼びます。
かつて一つの国民であったものが傲慢の象徴であるバベルの塔を作ったが故に神の怒りに触れ、人々は別々の言葉を話すようになり、多くの国に分かれました。この話に象徴されているように、分離の世界において自分と他人は別々の存在で、お互いが何を考えているのかも分かりません(と、私たちは思っています)。私たちはこの分離の世界で孤独という感覚を持ちます。そして恐怖が生まれました。
過酷な環境下で自分以外を蹴落としてでも生き残らなければいけないという生存本能に従って行動し、他者から奪い、より多くのものを得んがために力によって支配し、それを得ることで高慢と傲慢が生まれ、それを失うことで自己憐憫と不安が生まれました。自らが作った殻に覆われて視界が歪んでいるので、ことごとく誤った判断しか下せない。これがエゴイズムです。
私たちの中にあるエゴイズムの割合は人によって様々です。その人の考え方によって増えたり減ったりします。エゴイズムを消し去ることは私たち真理の探求者のみならず、全ての人がやらなければいけないことです。
その為にダスカロスが私たちに教えてくれた方法は、夜眠る前の5分間を内省(自己分析)に充てることです。
一日を振り返って、自分が成すべきではなかったこと、話すべきでなかったこと、思うべきでなかったことを探し、今度は逆に自分が成すべきで成さなかったことは何か、話すべきことで話さなかったことは何か、思うべきことで思わなかったことは何かを見つけます。
例えば、ちょっとした思い違いから喧嘩になってしまったことがあるとすれば、第三者の視点からその状況を思い浮かべます。
感情を交えず冷静に、どちらが悪かったのかを考えます。そして、どうすれば良かったのかを考えます。
最後に、より良い状況をイメージして、それが実現した時の感情を想像して、そうなるよう願いを込めてください。
この習慣を続けることで、私たちは毎晩新しい自分を造ります。
いつも同じような場面で衝突してしまったり、言わなくてもいいことを言ってしまったり。こうした過ちを正すことで、私たちはより良い自分になることができるのです。
そして、そうなることによって私たちは身のまわりにいる人をも幸せにすることができます。
愛、善意、思いやりの気持ちをいつでも持てるように、私たちのできることを少しずつ、こつこつと積み重ねましょう。
第九回へ続く
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