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しきから聞いた話 172 お喋り金木犀

「お喋り金木犀」


 入院していた知人が、退院すると連絡をくれた。

 出産のための入院で、逆子なので帝王切開をした。その後数日、退院の予定が延びたのだが、もう心配ないということだった。

 結婚前から、夫婦ともに付き合いがあったので、結婚後も気安く、しばしば互いに行き来していた。今回は、安産守りを引き取り、ひとり増えた家族全員の健康守りを渡すために、訪ねる約束をしていた。

 聞いていた時刻より早く着いてしまったので、家の前で待つことにした。
 この家は、ふたりが入籍する前に、新築で買った家で、建物の中は妻の好みに、車庫と庭は夫の好みにしたという。そして、ふたりで相談して決めたのが、表札のデザインと、門の横に植える木で、それはまったくふたりの好みが一致して、木の葉のレリーフをあしらった表札と、横には丸く刈り込まれた金木犀が植えられた。

 金木犀はいま丁度、甘い芳香を放ちながら、柔らかくも鮮やかな、蜜柑色の花をみっしりと咲かせていた。

「こんにちは」

この金木犀は、よく喋る。
長く話し込んだことはないのだが、来るたび、通るたびに、声をかけてくる。しかも、この家の事情をなぜだかよく知っていて、昨夜は夫婦喧嘩をしていただの、夫が妻に内緒で高価な自転車を買って車庫に隠しているだの、妻が習い始めたヨガを3回でやめただの、かしましい。あまり親身な受け答えはしないでいたのだが、この日は少し、様子が違っていた。

「香奈は、今日、帰ってくるんですよね」

 そうだよ。もう来るだろう。

「健彦が、迎えに行ってるんですよね」

そうとも。どうした、おまえの方がよく知っているのではないか。

「えぇ、まぁ。そうなんですけれど」

 いよいよ、様子がおかしい。
 心配になって、というわけでもないのだが、少し心の奥の方まで見るつもりで金木犀を見上げると、もやもやとした、不安に似た想いが、どっと流れ込んできた。

 赤ん坊とうまくやれるだろうか。赤ん坊に嫌われたりしないだろうか。香奈の退院が延びたのは何故だろう。健彦は悲しい想いをしていないか。赤ん坊は元気か。香奈は元気か。健彦は元気か。

 このうるさい金木犀は、存外、いい奴だったようだ。

「香奈は、お腹を切って、子を産んだのですよね」

 そう聞いているよ。

「それは、とてもたいへんなことですよね。香奈はしばらく、寝たきりになるのでしょうか。赤ん坊の世話は、誰がするのでしょう。健彦は、生きていけるでしょうか」

 聞いているうちに、笑いがこみ上げてきた。いや、この金木犀を馬鹿にする気はない。そうではなく、微笑ましく愛らしいと感じたのだ。

「まあ。早くに来てくれたのね。ごめんなさい」

 車が停まり、助手席の窓から、香奈が顔を出した。

「すぐに玄関、開けるわ」
「あぁ、待って、ドア開けるよ」

 香奈の抱くおくるみからは、よく眠っている小さな顔が見えていた。
 健彦は運転席から慌てて飛び出すと、助手席のドアを開け、門扉を開け、玄関を開けるために走っていった。

「忙しいのに、わざわざ、ありがとう」

 そう言いながら香奈が、そっと赤ん坊をこちらに見せる。
 頬がつやつやして、触れたらぷるんと弾けそうだ。
 にっこり笑った香奈が、二歩、三歩、金木犀に近付いた。

「いい香り。あのね、すごく不思議なことがあったのよ」

 香奈は、こちらに振り向いてから、また金木犀に目を戻した。

「病院で、この子を最初に抱いたとき、この子の握った手から、金木犀の花がぽろっと落ちたように見えたの。もちろん気のせいだったけど、でも、この香りがしたのよね」

 あぁ、それは気のせいではなかったかもしれない。
 想いが届いた、通じたのではないか。

 香奈はじっと金木犀を見上げ、ぽつりと言った。

「ありがとう。よろしくね」

 金木犀の芳香が、ひときわ甘く、優しく、漂い広がり、香奈と赤ん坊を包んでいった。


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