306 「入り鉄砲に出女」を厳しく取り締まった歴史を知る~湖西市・新居関所へ
こんにちは。
今日の名古屋の最高気温は35.7℃。朝8時台から外を歩いていたんですが、その時間から真夏を超えるような信じられない暑さ。数百メートル歩いただけで頭から汗が吹き出します。
そんな中やって来たのは静岡県最西端の町、湖西市。文字通り浜名湖の西にある町ですが、まさにその湖岸に位置するのが新居町(あらいまち)。今回の旅の目的地です。
駅のホームに降りると、北側の線路を新幹線が走り抜けていきます。浜名湖は日本で10番目に広い湖なんですがあっという間に渡っていってしまいますよね。
ところが江戸時代、ここを超えるのはそう簡単なことではありませんでした。
厳しい検問が行われた「新居関所」
それはここに非常に大きな関所があり、人の往来を厳しく制限していたから。新居関所と呼ばれる場所です。正式には今切(いまぎれ)関所といい、1600年に設置された当時は浜名湖と海がつながっている部分、今切と呼ばれる場所にありましたが、津波や地震もあって1708年にこの場所に移転しています。
この建物も地震で倒壊する憂き目にあい、最後に再建されたのは1860年。1869年(明治2年)に関所は廃止されますのでこの建物自体は10年ほどしか関所として機能していませんでしたが、多くの関所が維新後に壊される中、新居関所は役場や小学校として活用されて生き残り、江戸時代そのままの関所の姿を見ることができる貴重な史跡となっています。
入場料500円(旅館紀伊國屋の入館料とセットの料金)を支払って、関所跡の施設に入ります。
ここがかつての船着き場。
今でこそ橋が何本もかかり容易に往来できますが、江戸時代にはそんなものはなく船で浜名湖を往来していました。浜名湖を渡った船はここに到着して検問を受ける必要がありました。
特に往来が厳しく制限されたのは「鉄砲」と「女性たち」。鉄砲などの武器が関所を超え江戸に入るのを防ぐのは治安を維持し反乱を防ぐため。女性の往来を制限したのは、江戸の屋敷に人質として置いた大名の妻らが逃亡して故郷に帰るのを防ぐためでした。大名の妻らは幕府にとっては人質としての存在であり、その流出を厳しく取り締まっていたのです。
特にこの新居関所は出女の管理が厳しく、江戸を出る女性だけではなく江戸の入る女性も通行手形がなくては入ることができませんでした。地元の女性も浜名湖の東に向かうためには手形が必要で往来が容易ではなく、結婚にも影響し近所の中での結婚が進んでいったようです。中には男装をして検問を潜り抜けようよする女性も現れました。それを防ぐのが「女改(おんなあらため)」であり、新居関所には女改をする専用の建物までありました。「女改」とは要するに「男性なのか女性なのか、身体的特徴を見て確かめること」です。
女改は女性にとって苦痛なことでしたし、手形が発行してもらえない女性も多くいました。新居関所を通らずに浜名湖を横断しようとするいわゆる「関所破り」を計画するものも現れましたが、幕府は浜名湖周辺の村にもその取り締まりの協力を依頼しており通行の規制はかなり徹底したものでした。
宿場町としての「新居宿」
新居町には関所のほかにもうひとつの顔があります。関所の西側は多くの宿屋が並んでいました。ここは東海道五十三次の31番宿、新居宿です。宿屋の跡は多くは残っていませんが、紀伊国屋跡では当時の宿屋の姿を復元して展示を行っています。
紀伊国屋以外の宿屋跡はもうないですが、古い建物が残っているところはところどころにあります。もとの宿屋の名前が塀に記されており往時を偲ぶことができます。
時代は変わり、今では女性も自由に日本中、世界中旅をすることが可能になりました。それが当たり前でなかった時代があったことを知り、自由であること、平和であることの幸せさを改めて感じる旅になりました。程度は全く異なりますが、最近でもコロナで旅行を自粛する雰囲気になり、旅が自由にできないことの苦しみを実際肌で感じました。二度とこのようなことにならないよう、自由に旅ができるような環境がとわに続くことを願ってやみません。
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