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240 彼女が住んでいたのに訪ねたことがなかった寺社を廻る~東京・門前仲町

時は1996年。

3ヶ月だけ門前仲町に頻繁に通ったことがあります。
遠距離恋愛だった彼女が上京し、この町に住んだから。

ただ彼女は会社の寮に住んでいたので部屋には入れず、送るだけ。
でもそれが幸せだったんですよね。

ちなみに私はその当時荻窪に住んでおり、そこからトコトコ東西線に揺られて帰っていました。

そんな足しげく通った門前仲町ですがここでデートしたことはなく、
したがって周辺を歩いたことは全くありませんでした。残念なことをしたもんです。ここには立派な寺社があると知ったのは彼女がこの街からいなくなってしばらく経ってからのことです。

あれから27年。

久し振りにこの町を訪ね、あの頃訪ねることができなかった寺社を巡ることにしました。

門前仲町は地下鉄東西線大手町駅から地下鉄で5分のところにあります。東京駅からこんなにちかいのに下町感満載。駅を出るともう代表的な寺院である深川不動堂の赤い門が出迎えてくれます。

深川不動堂に向かう参道。大都会東京の中心から5分でたどり着く下町の世界です。

門前仲町という地名は昭和6年、門前山本町と蛤町の合併で誕生しました。門前、というのは今地域で最も大きな深川不動堂の門の前かというとそうではなく、江戸初期にあった永代寺の門前町として発展したことが由来となっています。永代寺は明治初期の廃仏毀釈により廃寺となり、その跡地に深川不動堂が建ちます。永代寺があった名残として門前仲町の地名が残っているのです。

ちなみに門前仲町の目抜き通りは「永代通り」といいますが、これが永代寺に由来するかは謎です。というのも永代寺自体が「永代島」と呼ばれたこの地に立ったことからその名がついたわけですから。どっちが先かわからないのです。

そんな地名の蘊蓄を語っていたら、深川不動堂の門前にたどり着きました。

先ほどの赤門にも書かれていましたが、深川不動堂は成田市に本山がある成田山新勝寺の東京別院。成田山の御本尊である不動明王の分身分霊がこの寺院の御本尊となります。

祈禱などの受付をする建物の周りには梵語の文字がびっしりと並べられていてなかなか圧倒されます。

きっとありがたい経典の内容がサンスクリット語で書かれているんでしょうが、詳細はわかりません。

仏像があるため写真は撮れませんが、お堂の中はかなり広く、中に上がると干支ごとの守護神や四国八十八か所を一堂に集め、そこをあるけば巡礼が完了してしまうという場所もあるなど、ありがたい施設がたくさんあります。

全ての人び煩悩と迷いを絶つため、怒りの表情を見せています。

20代のときにここを訪ねていても何もわからなかったかもしれません。50代になってもなお迷いさまよい、頼りなく生きている今だからこそ、ここで願い祈りをささげることで少しでも進むべき道を見つけようとする人の気持ちがわかるような気がしました。

立派な赤い鳥居がそびえたつ富岡八幡宮に到着。

深川不動堂を出て東に数分ほど歩くと、朱が眩しい神社に着きます。

ここは富岡八幡宮。江戸初期、小島であった永代島に、横浜の南部にある富岡地区を津波から守ったといういわれのある富岡八幡宮(波除八幡)を分霊して建てられたといいます。

廃仏毀釈で廃寺となった永代寺はこの神社の別当寺として建てられました。永代寺の住職は廃寺後にここの宮司となっています。神仏分離といいながら、この辺りはいい加減だったんだな、と思います。

ここには、日本地図を作るために全国を歩いた男、伊能忠敬の像があります。深川に居を構えていた彼は、測量の旅に出かける際必ずこの神社にお参りをしてから出かけていたそうです。

こちらの石碑は、大関力士碑に巨人力士身長碑。九代目市川團十郎が寄贈した石碑で、歴代の巨人力士の名を連ねた銘板や手形があります(手形の写真を撮るの忘れた!)。最近の力士では琴欧洲や豪栄道の名も刻まれています。かつてはここに名を刻むときは刻銘式も行われ、小錦関も式を行ったそうです。由緒正しい石碑ですが、珍しいもので目を引きますね。

ここはもともと海に面した小島だったということもあり、あさりが名物。深川めしをとも思ったんですが先にお昼をすましてしまっており断念しました。近辺に佃煮発祥の地、佃島があったことからあさりの佃煮を売る店も軒を連ねていました。

都心からわずか5分で到着する下町、門前仲町に是非みなさんもお越しください。

え?足しげく通った彼女とはその後どうなったかって?








ヒミツです(^_-)










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