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30歳となった米津玄師

今日、令和3年3月10日は米津玄師さんの30歳の誕生日。

「昔、友だちもいて、それなりに楽しい瞬間もあった。音楽を作り始めて、はじめはパソコンの前でやっていた。その時はこんな風になるとは想像もしてなかった。こんな沢山の人の前で、ステージに一人で、一人で?一人か。昔の自分を連れてきたら卒倒すると思う。昔の自分みたいな人がここに何人いるかわからないけれど、人生はいい方向にも悪い方向にも転ぶ。だから人生楽しんでいきましょう。そんな話をしたくなりました。」

これは、「米津玄師2020TOUR/HYPE」福井公演二日目の米津さんのMCだ。

20歳の頃、部屋で一人で音楽を作ることに淫していた若者が、その後もライブは好きじゃないと明言していた彼が、28歳の時には何千人の人を前にして、それも、観客を熱狂させるパフォーマンスをするようになった。

彼の20代は、始めと終わりでは、まるで別人のようだ。

「進化」

米津さんの変貌をそう呼んだのは、ロッキンオンジャパン編集長の山崎さんだが、米津さんの変貌ぶりは「進化」という言葉しか似あわない。

そして、天才である彼の宿命か、彼の20代は作品に大きな出来事を反映ささたり、また、図らずも世の中とリンクしてしまう10年でもあった。

『diorama』と東日本大震災

1991年3月10日生まれの彼は、20歳を迎えた翌日に東日本大震災という未曽有の大震災が起こる。そして翌年本名の米津玄師として発表したデビューアルバム『diorama』には、人の力では抗うことのできない震災へのせめても祈りの様に、江戸時代に地震封じのおまじないとして多く描かれた「鯰絵」が彼自身の筆で描かれている。

「Lemon」と平成

平成の終わりに最も、人々に聴かれた曲「Lemon」。

平成に起こった阪神淡路大震災、東日本大震災。

いずれも「予想だにしなかった」「未曽有の」という言葉を専門家の人々も口にするような厄災であった。

「Lemon」は人の死を描きながらも、どこか澄んだ美しいメロディで暗くはならない曲だ。まるで、万葉集の挽歌ー人の死を悲しみ悼む歌ーのように悲しみを浄化するかのように私には感じられた。当時、そう思っていた矢先に新元号の令和が万葉集が出典と聴いた時は、米津玄師が新しい時代を迎える前に、平成の悲しみや傷みを浄化するために作らされたのではないかという気がした。

平成の殉死者への手向け 米津玄師“海の幽霊”

元号が終わる時に、まるで殉死の様に、その時代を代表する人が亡くなってしまう。

「海の幽霊」は映画『海獣の子供』の主題歌として作られた曲にもかかわらず、作られた後に終始された米津さんの盟友wowakaさんのことを歌っているようにしか聴こえない。

そして、『STRAY SHEEP』

「迷える羊」では、コロナ禍での混迷を神話の様に謳い、「優しい人」では普遍的でありながら、コロナ禍での人の痛みを描いている。

世の中とリンクしてしまうこと。

世の中に対して、音楽で責任を取ろうとするかのような米津さんの姿勢。

それらが彼が20代のうちは痛ましい気持ちがした。

そんな米津さんも30代を迎えた。

私の中から、痛ましいという気持ちは消えた。

30代も天才の宿命として作品は世の中とリンクし、なおかつ音楽で責任も取ろうとするだろう。

それが、彼の絆(ほだし)ー自由を束縛するものーとならないように、米津さんが自由に心を遊ばせられることを祈るばかりである。

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