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6年残る歯形の味

吹奏楽部に入っていた。

この事実を自分事として咀嚼すると、ほかの人の人生の回路にうっかり入ってしまったような強烈な違和感を覚える。私が?吹奏楽部に?あまりにも遠くて、そのほかの出来事とはあまりにも質の違う記憶だ。

そんな時、私は決まって口をもぞもぞさせる。
下唇の裏側、すこし奥の方。

そこには、私がサックスを吹いていたころに出来た、上の前歯の歯形がうっすら残っている。
イメージが湧きにくいかもしれないけど、腕とかをがぶっと噛んでみると皮膚に前歯のギザギザのへこみが残るでしょ?
ああいう感触が今でも口の中、下唇の裏側で微かに残っているのだ。

おそらく、これは私がサックスをくわえるのが下手っぴだったから変な力がかかって、今日にいたるまで残ってしまったものだ。なんならそのせいで一回顎関節症も発症済み。

カクカクと顎を鳴らしながらその部分を舌でなぞっていると、だんだんと自分が吹奏楽部員だったころの記憶が思い出されてくる。番犬もびっくりの噛みしめ力で、万力のようにサックスと口内をぼろぼろにしながら、ついでに心身の他のいろんな部分もぼろぼろにした3年間。


ぼろぼろになった3年間だった。

人間関係最悪、コンクールは惨敗、活動は週5。

一般的な吹奏楽部の状況から考えるとこれでも活動頻度は少ない方だが、こんなコミュニティの中で過ごす週5の時間はあまりにも長く、実質週13くらいのしんどさがあった。
1年生の頃、放課後が来るのが嫌すぎて、友達と3人でみんな半泣きになりながら腕を引っ張り合ってなんとか音楽室に向かったこともある。音楽室の周りはどうにもほかの部屋と匂いが違って、それがまたたまらなく嫌だった。

これを吹くことで一体何人と間接キスをしたことになるんだろう、みたいなボロボロのサックスを楽器庫から引っ張り出す。自分のポーチからリードを出して口に含む。樹木のような竹のような匂いと、何かしらの薬品の苦みが口にじわっと広がってきたら、マウスピースに取り付けて吹く。猿や野鳥が嫌いそうな間抜けな音をひとしきり鳴らし、本体に取り付けて、ようやくそれが「サックス」になる。音程が悪いと怒られる。譜面が読めないと怒られる。チューナーの赤い光。縮こまっている同級生の背中。メトロノームの代わりに譜面台を叩く先輩。その手元で叩かれ過ぎてゴボウみたいになってるドラムスティック。合奏が始まる。


そこから数分。


僅かな時の間だけ、全部がどうでもよくなる。


声もなければ視線もない、楽器の音だけに囲まれて包まれて、そのうねりの中で足を取られるような感覚。その中に溺れながら漕ぎ出して、誰かと重なったりすれ違ったり、支えたり持ち上げられたり。自由に泳げる人ってこんな感覚なのかなという気持ちで、1曲の中をもつれる足取りでぐいぐいと掻き分けていく。心と脳みそが一本の管でつながり、そこがよろこびでジリジリ震える。合奏は楽しい。あぁ、音楽は楽しい。


曲が終わる。


その瞬間から、高校に入ったら二度と吹奏楽部なんて入らねえ、退部届ってどこでもらえるんだろう、みたいな気持ちにノータイムで帰っていく。大体先輩は「今の最悪だった」とブチ切れている。先輩と私が聴いていたものは、それぞれ何だったんだろう。


当時は本当に部活選びを間違えたと思っていた。
でも結局、私も周りもほとんどは3年間吹奏楽部員であり続けた。私たちと私たちの音を嫌い過ぎた先輩たちは、先輩たちにとって最後の演奏会の1か月前に、すべてを放り投げて部活を去ってしまった。その人たちの尻拭いをしてまであの場所を卒業していったことを思うと、意外と「間違い」というほどではなかったのかもしれない。

憎たらしさのあまり誰かを本気で睨みつけたり睨まれたり、逆に真正面から和解してその後何もなかったように下ネタで笑ったり、ついには二度と許せなかったり。そういう切実な人間関係は、あの場所でしか味わえないものだったのかもしれない。

こういうことを考えて遠い目になる度、高校時代の友人が言った「吹奏楽部出身の人は他人から搾取されがちすぎる」という言葉を思い出す。まさに私は吹奏楽部での記憶を正当化するために人の熱意に絆されやすくなってしまった典型的な人間の一人だ。今でも、誰かからルーキーズみたいなテンションで熱い想いとかを語られるとついつい手を貸したくなってしまう。詐欺かもしれないのに。危ない。


結局、自分にとってあの3年間が「良かった」のか「悪かった」のか、はっきりとは分からない。すごく傷つけられたし、多分私も誰かのことをすごく傷つけたかもしれない。でも、ギラ、と力強く自分の中に残っている一瞬の思い出も、いくつかは確実にある。


いつもこのことを考えると頭の中がくちゃくちゃになって、最後には

「とにかく、私は吹奏楽部に入っていた」

と確かなことだけを自分に呟いて、別のことを考え始めるのです。



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