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「ライティングの哲学」を読んで
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この本は山門文治さんのこちらの記事で知りました。
記事で一番目に紹介されているのと、表紙があらゐけいいちなのが決め手で購入しました。
私は文筆で身を立てている訳じゃなし、noteも本能の赴くまま書き散らかしているだけで、書けなくて困るということもありません。
だからこの本のメインテーマ部分は私にとってほぼ関係のないことです。
それなのに何故この本に引かれたのでしょうか。
この本の中で「書くこと」と呼んでいることがそのまま「生きること」と同義だからです。だからタイトルにあるように哲学なのです。
本を購入した帰りの電車で読み始めて、「はじめに」の文章で私は込み上げてきてしまいまいました。
……これって泣ける本なの?
noteでは収益化とか、フォロワーを増やすにはなどの記事が多いです。「こうすれば良い」という話は「こうしなければならない」ということではありません。
昔Twitterで見た言葉で印象に残っているのが“私たちのtweetは後世の人から見たら貝塚の貝殻のようなもの”というものでした。食い散らかしてどんどん捨てられるもの。それでいい人はそれでいいんだと思います。
食い散らかすだけの文章はなぜ書かれるのでしょうか?
「書く」の手前には「喋る」があると。しかし、ではそもそもなぜ喋るのか。一見喋ることに必然性はなさそうなのですが、人ってたとえば一人で放っておくと炊飯器に向かって喋りかけたりし始める。つまり人間は半ば自動的な独語を抱えている気がするんですよね(笑)。
我思う、故に我在り。私たちはいろんなことを思っています。それは誰もいなければ独り言で外に出てしまうほどの強い動機を持っています。
その動機のままに書いていいんだと、この本は許可してくれます。
書いていいんだよ、と言われることは生きていいんだよと言われるのと同じです。
これからも私は炊飯器に話しかけるようにnoteを書いていきます。
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