ツツましい本
これは私が小学生の時に体験したお話です。
私は読書を趣味としており、休日は近所にある市立図書館に入り浸っていました。本に関しては食わず嫌いしないタイプでしたので、様々なコーナーに行き、本棚の間を、とことこと歩きながら、気に入った本を見つけると、棚から抜き出し、その場に座り込んで読み耽ったものです。もちろんそれは通路を塞ぐ行為であり、マナー違反でしたのでその度に職員に注意されましたが。
読む本の中には、当時の年齢にそぐわない難解なものもあり、完全に理解できたとはいいませんが、部分部分から読み取れる文章を頭の中で咀嚼するだけでも、なんだが自分がすこしだけ賢くなった気がして嬉しかったものです。
また、インクや紙が醸し出す匂いに充満し、書物が所狭しと積み込まれた空間を散策するのは、幼い自分にとって、それ自体がある種の冒険心を満たす行為であったのかもしれません。
さて、とある夏の日。
その日もいつものように、私は図書館散策という名の、ささやかな冒険をしていました。
ただし。
いつもと違ったのは、その“冒険”の範囲を少し広げようとしていたのです。その図書館は2階建てでしたが、それまでの私の活動範囲は1階に限られていました。小さな子供にとっては一階フロアだけでも十分に広く、それなりに探索しがいがあったものですが、多少マンネリを感じていたこともあり、その日は少し勇気を出して、2階に上がっていったのです。
私は、吹き抜けを繋ぐ螺旋階段を、おずおずと登っていきました。
2階に上がると、すぐそこに学習室がありました。ガラス越しに、沢山の学生達が勉強をしている姿が見えました。小学生だった自分からすれば立派な大人である彼らが、真剣な顔をして勉学に励んでいる姿は、近寄りがたい雰囲気を醸し出しており、とても中に入ってみる気にはなりませんでした。しかし、向かって右手にはまだ廊下が続いていたため、そちらを探検しようと私は思いました。
彼らを横目に見つつ、奥へ奥へと進みます。薄暗い廊下の突き当たりには、開いた扉があり、その向こうには本棚が見えました。近寄って恐る恐る中を覗きます。学習室には学生たちが沢山いましたが、その部屋には、全く人気はなさそうでした。私はさっそく扉をくぐり、辺りをきょろきょろと見渡します。そこは、こじんまりとしたスペースで、小さなカウターがありますが職員は誰もいません。奥には本棚があり、古めかしい本がぎっしりと並べられていました。
今思うと、そこは「レファレンスコーナー」という場所だったのでしょう。郷土資料など調査研究のための資料類をとりそろえているところで、実際、近づいてよく見てみると、私が住んでいる地域の歴史、民俗についての本が沢山ありました。
しばらく散策していると、とある本が目にとまりました。私の目線と同じ高さの棚、黄ばんだ分厚い本の間に、鮮やかな赤い本が差し込まれていたのです。背にはなにも書かれていませんでした。
気になった私はその本を手に取りました。
それは分厚い本と本の間に、ギチギチに挟み込まれている割には拍子抜けするほどあっさりと、子供の力でも簡単にずるずると抜き取れました。
赤く塗りつぶされたハードカバーの表紙には、ディフォルメされた男の子の顔が描かれていました。
『〇ましいほん』
表題にはそうありました。「〇」は漢字でしたので、当時の私はすぐには分かりませんでしたが、「ほん」は本のことを示すことは理解できました。つまり『〇ましい本』という本であることは推測できます。
背に何も書かれていないことを除けばそれは、親が子をひざの上に座らせて読み聞かせ、一緒にその世界を共有して楽しむ為に。そのような意向で作られた一般的な絵本に見えました。
おそらく、本来は児童書コーナーにあるべき本が、職員の手違いにより、このような場違いな場所に置かれたのだと私は推測しました。
当時の私は漢字の書き取りが大嫌いで、漢字テストはいつも赤点でした。しかし読書は大好きでしたので、年齢不相応な難しい漢字でも、その都度、親に聞いたり辞書を引いたりして覚えていたため、それなりに読むことができていました。漢字は書き方を覚えるよりも、読み方を覚える方が簡単なのです。また、読書量を積み重ねることにより、読み方が分からない漢字でも、前後の文章や文脈からある程度、その漢字の意味するところを読み取れる力も、私はそれなりに身に付けていたと思います。
そして、漢字の読み方が分かってくると、まだ習っていない漢字であったとしても、その形から、なんとなくその意味が理解できることが多々あります。
「怒」は刺々しく、「悲」は涙を流している印象を受け、「忌」は避けなくてはいけない感じがします。
少なくとも、その赤い本に書かれていた漢字の形は、当時の私にとって、上記の漢字のようなネガティブな印象は全く受けませんでした。私は頭をひねって、その漢字の読み方を突き止めようとしました。
「多分、ツツましいだ……」
私は最終的に、“遠慮深くて動作・態度が控え目だ”という意味の「つつましい」をその漢字に当てはめました。当時の私の知識と感受性を総動員した結果、「つつましい」が一番しっくりきたのです。
漢字の読み方と意味の目星がついたところで、内容が気になった私はさっそくページをめくりはじめました。
まず、表紙と同じ赤く塗りつぶされた見返しがあり、さらにそれをめくると、通常の絵本のように扉がありました。
“これはツツましいほんです。みんなツツましくなります。”
扉にはそう書かれていました。
私は首をひねりました。先ほど書いたように、「楽しくなる」や「嬉しくなる」ならまだ分かります。“つつましくなる”は、親が子に読み聞かせるための絵本にしては、不釣り合いな表現なのではないか?と疑問に思ったのです。
しかし、好奇心が勝った私は、さらにページをめくります。次のページも真っ赤でした。
『これはおうちです』
という一文と共に、簡略化された家が一軒描かれていました。白い四角の壁の上に青い三角屋根。そして十字格子の窓が1つある、いかにも絵本に登場しそうな家です。ただし、地面は描かれておらず、赤い背景にぽつんと浮かぶように、ただ家だけが描かれていました。
ページをめくります。
『ツツましいおうちになりました』
家は滅茶苦茶になっていました。
真四角だった壁は不規則に膨れ上がり、窓は歪み、三角屋根はもはや三角ではく、どろりと壁から垂れ下がっています。前ページでははっきりと塗り分けられていた屋根の青色と壁の白色は混ざり合い、そしてなぜか背景の赤色も家に侵出し、不快なグラデーションとなっていました。
仮に描き手が、倒壊した家の様子を幼児にわからせようと描いたのならば、決してそのようにはならないでしょう。そのぐらい現実離れした歪な姿をしていました。
私は手に汗が滲むのを感じながら、またページをめくりました。
『これはいぬです』
赤い背景の中、正面を向いて舌を出した茶色の犬が1匹、描かれています。
震える手でページをめくります。
『ツツましいいぬになりました』
犬の死体が描かれていたほうがまだ、ましだったかもしれません。
全身は歪み、その顔は失敗した福笑いのように、デタラメな位置に目や鼻や口や舌が配置され、背景の赤と体色の茶色がぐちゃぐちゃに混じり合い、それでいて、まだ生きていることははっきりと分かるように描かれた犬の絵が、そこにはありました。
その時の私は、早くこの本を手放してここから逃げたいという気持ちと、早くページをめくって続きを見たいという気持ちの、矛盾した2つの感情に支配されていました。
後者の感情が少しだけ勝りました。
やたらと重く湿っぽい、そのページを私はゆっくりとめくりました。
そこには。
表紙に描かれていた男の子がそのまま描かれていました。
『これはあなたです』
気がついた時には、私は1階の中央フロアにいました。息を切らしていたため、必死に走ってきたことはわかりました。全身に汗をぐっしょりとかき、Tシャツが肌にべったりと張り付いています。ただならぬ様子を感じ取ったのか、図書館員が心配そうに声をかけてきましたが、私は「大丈夫です」とだけ言い、すぐに家路につきました。
その後、高熱を出した私は、数日ほど熱でうなされることとなりました。幸い大事には至りませんでしたが、あの本を触り、あのページをめくった際の、いやに湿った感触が不自然なほど手に残っていたのは覚えています。
それから月日が経ったとある日、図書館で体験した恐怖も大分薄れたころ、家である小説を読んでいた私は、書かれている一文を目にした途端に背筋が冷たくなるのを感じました。
赤い本に書かれていた、私が「つつましい」だと思っていた、あの漢字を見つけたのです。
近くにいた母親に、私は尋ねました。
「この漢字、なんて読むの?」
母はすぐに答えてくれました。
その漢字の読み方を。その本当の意味を私は知りました。
顔を引きつらせて硬直している私を、母は不思議そうに見つめていました。
恐怖心とは別に、私の頭の中では様々な疑問がぐるぐると渦巻いていました。
今思うとなぜあの時、疑問に思わなかったのか不思議です。
絵本であるのにも関わらず。現に本を「ほん」とひらがなで表記しているのに。その本にふさわしい対象年齢の子供が理解出来るはずがない漢字をルビも振らずに書いてあったのか。
さらに。児童書のコーナーは1階にあるのに。2階のあのような奥まった場所に、なぜ1冊だけ絵本が混じっていたのか。職員が間違えたとしても、あまりにも不自然ではないのか。
そもそも。
あれは絵本だったのか。
大人になった今でも、私は図書館の2階のあの場所を訪れてはいませんし、これからも訪れることはないでしょう。
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