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死ぬまでにこの本は読んどけ#2-森博嗣-【ブンガク×オンガクVol.7】

さて、文学紹介の方もちょこちょこ進めていこう。

今回も引き続き現代の大衆文学から。

大衆文学だってバカにしちゃあいけない。
尾崎紅葉だって、近松門左衛門だって、大衆の支持があったからこそ、後年に残る作品を生み出せた。

もちろんエンタメだけで飽き足らなくなったら、純文学の沼にも足を踏み出してほしい。
僕たちが生きていることの「意味」について、掘り下げて考える契機になるから。

メフィスト賞は彼から始まった「森博嗣」

「メフィスト賞」という文学賞をご存じだろうか。

講談社の文芸誌「メフィスト」が主催するエンタメ文学新人賞で、過去の受賞者には、辻村深月、西尾維新、舞城王太郎、清涼院流水、乾くるみ、とネームバリューのある面々が並ぶ。

その第一回を受賞したのが、森博嗣である。

実は、森博嗣が持ち込んだ作品に衝撃を受けた編集部が、彼のストックの中から最も派手だった「すべてがFになる」に手直しをさせ、大々的に売り出すために受賞させたという。
つまりは、森博嗣のために創設された賞といって過言でない。

華々しくデビューした森は、同時期にデビューした京極夏彦らと共に、ミステリィの分野で「ポスト新本格」として頭角を現していった。
※新本格ミステリとは、綾辻行人や有栖川有栖などが中心となって、論理的な謎解きを重視する「本格ミステリ」の復興を目指し、反響を生んだムーブメントのこと。

デビュー当時、森は名古屋大学工学部建築学科の助教授で(大学を退職するまで、国立N大学助教授というプロフィールを長らく公開していた)、登場人物のロジカルな会話や、理系知識を用いたトリックなど、その著作は「理系ミステリィ」と呼ばれ、キャッチ―な響きと共にブームとなった。

そういえば、90年代後半は、理系ホラーの瀬名秀明や小林泰三など、コンピュータの台頭と共に、「理系文学」が持て囃された時代でもあった。
SFの技法が各ジャンルへ流れていったとも捉えられるだろうか。

さて、森博嗣は最盛期には月一本ペースで新作を発表しており、驚くべき筆の早さであるが、そのため著作数がべらぼうに多い。

何から手を付けていいのか分からないという方も多いと思うので、ポイントを絞りつつ、オススメ作品を紹介していきたい。

まずはこれを読め『まどろみ消去』1997年

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大学のミステリィ研究会が「ミステリィツアー」を企画した。参加者は、屋上で踊る30人のインディアンを目撃する。現場に行ってみると、そこには誰もいなかった。屋上への出入り口に立てられた見張りは、何も見なかったと証言するが……。(「誰もいなくなった」)ほか美しく洗練され、時に冷徹な11の短編集。
(Amazon紹介文より)

森博嗣のエッセンスを感じるのに最適なのは、短編集『まどろみ消去』だと思っている。

森作品のほとんどはシリーズ物だが、彼の作品の特徴の一つであるサブカルっぽい空気(あるいはアニメっぽさと言ってもいい)が色濃く出ているものも多く、登場人物が鼻についてしまったが故に敬遠されるのは残念だからだ。

森作品の面白さはキャラ造形だけでない。

ロジカルな謎解きや、エスプリの効いた表現など、洗練されたミステリィの醍醐味も十分備えている。

叙述トリックの原型は、おおよそクリスティが完成させてしまい、以降の時代の作品はその焼き直しでしかないと思っているが、森博嗣は現代的な感覚でそれを見事に焼き直しており、ここまで洗練されているならば焼き直しでも十分に満足できる。

もちろん、サブカルっぽさが強めの一話、SFっぽい一話、諧謔に富んだ一話など、バラエティ豊富なラインナップが並んでいるので、森作品のどの部分に惹かれたかによって、二冊目以降、どの作品に手を付けるか、方向性を決めたらいい。

『まどろみ消去』は、森作品を様々な角度から味わうことのできる、大変お買い得な一冊だ。

キャラクタの雰囲気が気にいったならこれ『すべてがFになる』1996年

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孤島のハイテク研究所で、少女時代から完全に隔離された生活を送る天才工学博士・真賀田四季。彼女の部屋からウエディング・ドレスをまとい両手両足を切断された死体が現れた。偶然、島を訪れていたN大助教授・犀川創平と女子学生・西之園萌絵が、この不可思議な密室殺人に挑む。
(Amazon紹介文より)

森作品に登場する濃ゆいキャラクタや、彼らの掛け合いを味わいたいなら、そのあと長く続くシリーズの第一作である本作から読み進めていくのがいいだろう。
まさに伝説の始まりだ。

森は、漫画家の萩尾望都から強い影響を受けたことを公言しており、彼自身、同人マンガ家としての顔も持っている。
萩尾の影響ということで、当然ジャンルは少女マンガ。
キャラクタ同士の暑苦しくないサラリとした掛け合いは、森作品の大きな特徴だ。

※余談になるが、少女マンガから影響を受け、それを別ジャンルで活かした作風というのは90年代から徐々に台頭してきた(例えばマンガ家の高橋しんや安倍吉俊など)。
その中で、「少女マンガ」というジャンルの物語構造について、思想家で文芸評論家の吉本隆明が後年に解析を試みている。
『ハイ・イメージ論』などに収録されているので、興味のある方はぜひ。

さて、『すべてがFになる』のあらすじを読むと、何やらおどろおどろしく、ヤンマガにでも載ってそうなエログロ物の系譜かと思いきや、探偵サイドの登場人物が理知的で割と淡々としているため、すっきりとした気持ちで読み進めることができる。
森博嗣から多大な影響を受けた西尾維新の筆致にも通じるが、どこかひょうひょうとした印象の文体で、アイロニカルな言い回しも、くどすぎずに効いている。

もし本作を「面白い」と感じられたら、長い長い森作品ロードの始まりだ。
シリーズ物の洋ドラのように、しばらくは夜のお供になるだろう。

森ミステリィの真髄を味わいたいならこれ『女王の百年密室』2000年

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旅の途中で道に迷ったサエバ・ミチルとウォーカロンのロイディは、高い城壁に囲まれた街に辿りつく。高貴な美しさを持つ女王・デボウ・スホの統治の下、百年の間、完全に閉ざされていたその街で殺人が起きる。時は二一一三年、謎と秘密に満ちた壮大な密室を舞台に生と死の本質に迫る、伝説の百年シリーズ第一作。
(Amazon紹介文より)

ミステリィの王道、「密室トリック」を追求し、SF世界で書き上げた傑作が『女王の百年密室』だ。

クリスティの時代にミステリィにおけるトリックの原型はほぼ出尽くしてしまったと前段に書いたが、本作は全くもって新しい境地から、密室トリックに挑戦している。

個人的には、その種明かしに震えた。
まだこんなところに、トリックのフロンティアが残っていたのかと。

アンチ・ミステリィすれすれの飛行であるため、評価は分かれるかもしれないが、謎解きというのは「発想」によって、これほど懐が広くなるのかと感嘆させられる。

また、物語としては、「神」とは「人間」とは何か、という人類史的な問いを現代的感覚で投げかけており、それがトリックともリンクしていくところに構成の妙がある。
SF(ファンタジー)というオブラートに包まれているが、極めて現代的な作品だ。

森作品の中でも、特に一読して欲しい作品である。

森SFの深淵を味わいたいならこれ『スカイ・クロラ』2001年

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僕は戦闘機のパイロット。飛行機に乗るのが日常、人を殺すのが仕事。二人の人間の命を消したのと同じ指でボウリングもすれば、ハンバーガも食べる。戦争を仕事にしなくては生きられない子どもたちの寓話。
(Amazon紹介文より)

押井守監督でアニメ映画化もされた話題作『スカイ・クロラ』

ショーとして必要悪的に続けられる「戦争」を、民間企業(戦争法人)が担う時代、キルドレと呼ばれる思春期以降成長しない子供たちが、戦闘機のパイロットとして毎日生死の境を飛行する、という一見ハードな物語。

しかし、森作品らしく、究極に淡々とした描写で綴られるため、ダークな雰囲気は漂うが、どこか冷たく透き通ったような印象を抱く。

それは単行本の装丁にも表れており、表紙に印刷されたどこまでも続く空が空虚だが美しい。

※ちなみに余談になるが、単行本は透明なカバーに包まれている。
流通にあたっての書誌登録で撮影されるのは表紙でなくカバー部分なのだが、カバーの有無に関わらず、ただ空が広がっている絵を見せたいというこだわりが詰まった装丁だ。しかも帯も兼ねたカバーになっているところも製作的にテクニカル。
(出版社に勤務していたころ、製作部にいたこともあるので、このアイデアとこだわりには唸った)

さて、そもそもSFというジャンルは、現代社会をアイロニカルに、あるいは寓話的に切り取る手口としても活用されてきたが、本作においても内包されるテーマは現代的なものだ。

生きることや、死ぬことに対して、どこか空虚さを抱えた現代において、淡々と戦闘機に乗る、大人になれない子供たちは、極めて示唆的な存在だ

押井守は映画化にあたり、「若い人に、生きることの意味を伝えたい」と、原作ラストを大幅に変更し賛否両論まきおこしたが、いずれにせよ本作は「生きることの無為さ」が淡々と描かれているように思う。

一方で、(ハードSFの作法にも則っているのだが)戦闘機の機器立ち上げや飛行の詳細について、かなり精緻に、あるいは偏執的に書きこまれており、感情希薄な主人公が感じる淡い高揚感もそこから生まれる。
まるで、趣味に没頭している時だけ、生きることの無為さから逃れられるとでも言いたげに。

そのあたりのシニカルな価値観も含めて、森博嗣はやはりSF作家でもあるのだなと感じさせられる一冊だ。

番外編・新書『科学的とはどういう意味か』2011年

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科学――誰もが知る言葉だが、それが何かを明確に答えられる人は少ない。しばしば「自然の猛威の前で人間は無力だ」という。これは油断への訓誡としては正しい。しかし自然の猛威から生命を守ることは可能だし、それができるのは科学や技術しかない。また「発展しすぎた科学が環境を破壊し、人間は真の幸せを見失った」ともいう。だが環境破壊の原因は科学でなく経済である。俗説や占い、オカルトなど非科学が横行し、理数離れが進む中、もはや科学は好き嫌いでは語れない。今、個人レベルの「身を守る力」としての科学的な知識や考え方とは何か。
(Amazon紹介文より)

元名古屋大学工学部の助教授である彼は、エッセーやノンフィクションの著作も多い。

東日本大震災のあった2011年、超特急で上梓したのが本書だ(十二時間で書き上げたという)。

科学的でない報道と、それを受け取って生まれる科学的でない言説に対し、憂いと危機感があったのだろう。
珍しく感情的で主観的な文章もあるが(宗教や文系的思考への皮肉など)、自らを守るためには「科学的思考」が必要であり、「科学的思考」とはどういうことかが、平易な文章で書かれている。

科学的であるというのは、何も難しい理論を覚えたり、専門用語を使ったりすることではない。

科学的であることの本質は、何かについて述べた時、後から誰でも確かめられるような「再現性」があるかということだ。

最近も精神科医の斎藤環氏が、新型コロナワクチンを巡る報道において、街中で「ワクチンを打ちたいか打ちたくないか」とインタビューするなどという情緒的な情報は無価値であると発信していたが、まさに「再現性」のない情報だ。

コロナ禍において、今再び価値ある書籍だと思う。


ということで、今回は森博嗣を特集してみた。

西尾維新が「神」とまで崇める作家であるが、僕も中高生の頃、貪るように読んだ。
シニカルな言い回しや考え方をカッコイイと思ったし(実際カッコイイ)、「世界は私の『認識』によって作られている」というのを学んだのも森作品からだ。

少女マンガから影響を受け、程よいラブコメ要素もあることから、女性ファンも多く、文章もかなり読みやすいので、ちょっとした息抜きに読んでみるのもいいだろう。

一方で、現代社会に対する哲学も随所に感じられ、なぜ主要なエンタメ系文学賞にノミネートすらされないのか不思議でならない。

理系という言葉に対する忌避(あるいは嫉妬)であるなら、これほど残念なことはない。


(筆者)キャンディ江口
キャンディプロジェクト主宰。作家、演出、俳優。
近年は「ブンガク×オンガク」をテーマに舞台作品を発表している。
映像出演時は「江口信」名義。(株)リスター所属
Twitter:@canpro88
HP:http://candyproject.sakura.ne.jp/

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