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当たり前のことをする

日常は、当たり前の積み重ねである。たとえば、レストルームの手拭き用タオルを変えたり、洗濯機に柔軟剤を入れたり、庭の植物に水をやっているとき、「自分はなんて人間らしいんだ」と思う。当たり前に行っている活動を客観視してみると、人として生きている実感を得る。

人として当たり前に行っている活動は、時に不自然な活動にも思える。柔軟剤を入れなくても洗濯は済むし、庭に水をやらなくてもいつかは雨が降って植物を潤してくれる。手拭き用のタオルの交換だって、最悪1ヶ月以上変えなくても誰も気にしないし、なんなら洋服の裾で拭いたっていい。横着に生きようと思えばいくらでも横着に生きられるのだ。

最近の私は「当たり前」について考えを巡らせている。当たり前のことができる人、できない人。そもそも当たり前ってなんなんだ?と問われたら、私は「人間らしさを担保する一定の活動」答えるだろう。ただし、この答えは人間社会においてのみ成立する。猿には猿の当たり前があるし、ネズミにはネズミの当たり前があるからだ。そして、「当たり前」は他者によって強いられるものではないとも考えている。先述したように、当たり前と考えられる活動は、違う角度から見ると不自然にも見えるからだ。人間の当たり前が、人間以外の動物には通用しないように、自分が考える当たり前も、他者には通用しない場合もある。人間関係においてしばしば軋轢が生じるのは、各人が持つ多種多様な「当たり前」が一因となっているんじゃないだろうか。「できて当たり前」とか、「当たり前のことを当たり前にやる」とか、よくわからないけど、なんだかハードルの高そうな当たり前を強制されているよう気がして、胃が痒くなる。当たり前は強制されるものではなく、個々人が自然と行っている人間らしい活動と考えたら少し気が楽になる。

何が言いたいのか、鯔のつまり、自分は自分の当たり前を積み重ねて生きていこう、というところだ。自発的に行っている人間らしい活動を大切にしてみる。花瓶の水を換える、郵便ポストのチラシを片付ける、牛乳パックを洗って解体して乾燥させる、近所の人に挨拶する。もう少し簡単なものだと、朝ごはん食べる、トイレを我慢しない、スリッパを履くとか。年齢を重ねて、できること・できないことの区別がしやすくなってきたからこそ、自分が当たり前にできることを大切に積み重ねて、他者に強制することなく暮らしていきたいと思う。

今日のフォカッチャ、紅はるかとブリーチーズ入り

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