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「諸悪の根源」のいない世界で僕らはどう生きるのか

この世界に「諸悪の根源」みたいな存在がいてくれたら、
と子どもの頃から何度となく思ってきました。
 
でも大人になるにつれて分かったのは・・・・
 
誰もが繋がり、連鎖している世界で、
そんなものはいないということでした。





誰かが絶対的な「悪者」で、みんなを苦しめていて、
そいつさえやっつければ平和で幸福な世界がやってくる、
という仕組みだったら、どれだけ楽だったろう。


そんなふうに、大人になった今でも、
考えてしまうことは少なくありません。



でも、この現実の世界は、誰もが、
「ちょっとずつ正しく」、
「ちょっとずつ悪者」です。
 
または、誰もが、
「誰かにとっては正しく」、
「誰かにとっては悪者」なのです。




何かが、誰かが、絶対的に悪いわけじゃない・・・・
 
何か問題が起きた時、その物事の表面に出てくる、
「目立つ存在」をやり玉に挙げても、何も変わりません。
 
なぜなら、その人が「諸悪の根源」ではないからです。



確かに、もしかしたら何か大変な出来事の、
「直接の原因」となった人はいるかもしれません。
  
事故を起こした張本人、
事件を起こした犯人、
いわゆる「加害者」・・・・
 
そういう人は、いるかもしれません。

けれども、その人を糾弾したところで、
二度とそういう事故が起きなくなるか、
そんな犯罪が繰り返されなくなるか、
「加害者」がいなくなるかというと、
そうではないわけです。
 
なぜなら、その人にそういう行動を取らせたのは、
その人に関わってきた他の多くの・・・・全ての人たちだからです。


事故を起こしたのはその人かもしれなくても、
その人を、事故を起こすような性格にしたのは、
その人を育てた人や関わってきた人かもしれません。
 
事件を起こしたのはその人かもしれなくても、
その人を、そういう犯罪に駆り立てたのは、
周りで関わってきた人たちかもしれません。
 
何かひとつの問題については、
「加害者」と「被害者」に分かれるかもしれなくても、
その「加害者」だって、別のどこかでは、
「被害者」であったかもしれません。






「バタフライ効果」みたいな話に言われるように。
 
「風が吹くと桶屋が儲かる」という言い回しがあるように。
 
僕らの、ひとりひとりの行動が、
どこでどういうふうに繋がって、
どんな結果を生み出すのか、
完璧に予測できる人間なんて、いません。


もしかしたら、あなたが今日、
誰かに言った何気ない一言が、
その人の心を深く傷つけ、
いつかその人の心を壊して、
将来の大量殺人者にしてしまわないと、
そう言い切れるでしょうか?
 
そうなってしまった時、あなたは、
その責任を取れるでしょうか?






だから、僕はいつも思うのです。


この世界が、どんなに理不尽なものであろうとも。
社会や制度が、どんなに自分にとって不都合なものであろうとも。
 
それが自分の身に降りかかってきた原因の一端には、
自分自身の行動が関わってなかったとは、言えない。
 
だったら、何か自分にとっての「悪」がいたとて、
その実態の掴めない「何か」に憤る気持ちを、
なるべく早めに諫めて、ただただ、


「目の前にいる人、そばにいる人に、
じゃあ自分はどんな言葉をかけ、
どんな行動で対応していくのか」


ということを、しっかり考えていこう、と。






勿論、直接的に、社会や制度を変えようとする取り組みも、
それはそれで素晴らしいと思います。
それができる人、やりたい人は、
それをするのもいいでしょう。

けれども、忘れてはいけないのは・・・・

社会や制度が、「諸悪の根源」ではないということ。

もし、何かの制度が「悪い」と感じるなら・・・・
それを、なんとか頑張って撤廃させたところで、
「その制度が生まれるに至った仕組み」自体は、
変わってはいないわけです。

結局また別の形で、その「悪い」ものは生まれ出ます。



だから、社会や制度を変えようとする頑張りと「同時に」、
自分自身が周りの人たちに、
自分が思う「良いもの」を手渡せるようにしていこう。

そんなふうに思いながら、
今日も生きていくわけです。



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