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餃子のような月は見えなかったけれど

6月25日(日)

帰宅後、ツイッターを開くと、「ただの人生相談」というタイトルのスペースが目に入り、なんとなく気になったので入ってみた。作家の女性が、友人の男性に人生相談に乗ってもらっていて、僕も含め25人ほどがリスナーとして参加していた。

仕事でうまくいかないことがあって落ち込んでいること、文筆業の収入が落ちていて、これからどういう方向性で書いていこうか、といった旨の話をしていた。作家という世界における、私的な悩みなので、わからないことや、共感できないことも多いのだけど、ある人にとっての切実な思いから発せられる言葉には、つい聴き入ってしまう何かがある。

人生相談には、「その人らしさ」が自然と滲み出るから、知らない人の話でも面白く聴けるし、自分もスペースで人生相談乗ったり、乗ってもらったりしても楽しそうだなと思った。

最近フォローした人が、「今日の月は餃子みたい」とつぶやいていたので、冷凍庫に放り込んでいたスイカバーをかじりながら、外に出てみた。風が涼しくて気持ちいい。しばらく辺りをぶらぶらしてみたけど、月が見える気配はない。ライトアップされたスカイツリーは、いつもと変わらず、どこからでもよく見えた。

家の近所にあるキラキラ橘商店街は、昼間の賑わいとはうってかわって、夜は人っこ一人いない。外灯の明るさが、静寂を一層際立たせている。昼夜のギャップを感じながら、しんとした通りを一人で歩くのが好きだ。そのまま散歩を続けながら、自販機で麦茶を買って、適当なベンチに腰かける。

生き方、考え方に以前から共感していた元・日本一有名なニートのphaさんの文章をひさしぶりに読みたくなり、Kindleの本やnoteの記事に目を通す。その中に、社会学者の見田宗介(真木悠介)の話が出てきた。「自分にとって本当に切実なこと」はなんだろうか、と思いを巡らせてみる。

人間というかたちをとって生きている年月の間、どのように生きたらほんとうに歓びに充ちた現在を生きることができるか。他者やあらゆるものたちと歓びを共振して生きることができるか。

真木悠介『自我の起源』

この問題意識は、自分にとっての切実なことにも通じる。生きていることの歓びも、哀しみも、寂しさもしっかり味わって、心の奥にあるものをたがいに響かせ合いながら、深い部分での他者とのつながりを感じたい、という思い、願いが自分の中にある。

そして、それらをどう実現していけばいいか、がなかなか見えてこないもどかしさ、ままならなさもずっと抱え続けている。先日参加したイベントでも話題に挙がったけど、最近は、身体性に鍵があるように感じているので、引き続き自分の中で追求していきたいテーマ。

他にも、ツイッター経由でたまたま読んだブログの文章が素敵で、書いている人と、喫茶店でゆっくりおしゃべりしたいような気分になったり。記事をブックマークしようと思って、はてなブログにログインしたら、10年以上前に書いた自分の文章が発掘されて、なつかしさと恥ずかしさで、うわーってなったり。大学生の頃の記事は、青みが強すぎて、ちょっと人には見せられないけど、当時の自分の素直な気持ちが綴られているように感じた。

リアルでも、ネット上でも、何の気なしにぶらぶらしていると、見知らぬ誰かの声や言葉だったり、過去の自分との再会だったり、思いがけない出会いがときどきある。日常からはみ出したこういう夜は楽しくて、ついつい夜更かししてしまう。

餃子のような月がどんな感じだったかは、まだちょっと気になってるけれど。

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