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キャン的な日記2021④

どうもここ最近は気持ちが、ぽっかりふにゃついていて、仕事以外で何かにエネルギーを傾ける気が起きなかったのだけど、夜桜がきれいで見頃なもんだから、つい最寄駅からの帰り道にコンビニで発泡酒とあたりめを買って、近所の公園のベンチで飲んでいる。もう全然寒くない。気がついたら春だ。

桜を眺めながら、ぽけーっとタバコを吸っていたら、なんだか不意に文章を書きたくなった。家に帰ると気が抜けて書く気無くなるから、花見しながら書いている。別に書かなきゃいけない理由も、結論もとくにないけど、何かを書きたくなるときがたまにある。書きながら、自分の中にある形のない何かを手探りで確かめるような感じ。

3月から自分を取り巻く環境に大きな変化があったから、時間をはじめ、いろいろなものを持て余しているのかもしれない。望んだことではあったけど、頭と心がまだ変化に追いついていない気がする。
さて、これからの人生どうなるかなあ、という心持ち。まあいつものことだけど、明確にこうしたい、こうなりたい、とかはとくになくて、自分の気持ちと流れに身を委ねるしかないなと。先の見えない不安もあるけれど、この曖昧さの中を漂う感じは自分らしいと言えば自分らしい。
日々の雑事を場当たり的に、小器用にやれてる風なところもあるかもしれないけど、結局行くべきところに流れ着くし、こういう風にしか生きられないんだよなって。前向きでも、後ろ向きでもなく、然もありなん。

桜を眺めていたら、梶井基次郎の短編の一節をふと思い出した。「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」ってやつだ。

これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。

ただただきれいなもの、美しいものは、どこか嘘くさい。光と影、生と死が表裏一体のように、桜の樹の下には屍体が埋まっているぐらいの方が説得力があるし、ロマンや情緒を感じる。四季はよく人生の移ろいに例えられるが、終わり=死に近づく冬から、はじまり=生へと巡り行く春という季節に、この桜と屍体のモチーフはとても象徴的だなあと思う。

今月は、なんだかよく寝て、よく食べた気がする。職場以外では、人ともそんなに会わないシンプルな生活。あとは、映画館でエヴァ観たのと、週に1回、友達からピアノのオンラインレッスンを受けながら、ちょくちょくピアノ弾いたり。さみしさにもだんだんと慣れてきた、ひとり暮らしの日々。

結局、書き上げるのに2時間近くかかってしまった。何もなくても、いつもこれぐらいの時間までだらだら起きてるけど、今日は、ささやかなやり切った感に浸りながら、眠りに就けそう。

4月になったら新しい風が吹くといいな。
とりあえず、昼から外で酒飲みながら花見したい。

なんとなく、ロビンソン。

おしまい

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