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それぞれの舞台で、それぞれが主役の劇が行われている。

「あの子はあなたが成長するために生まれた」
「この病気になったのは、あなたがこんな学びをするためだった」
「あの人はあなたがこの経験をするために登場した」
こういう言説が今までとても嫌いだった。
何故、第三者がそんなことを無責任に言うのか。それによって、言われた人がどう思うか。
私は誰かを傍役として扱うようなことは言うまい、特にそれが動物や子どもや災厄など、誰でも解釈可能な存在のときには。
長くそう決めていた。握りしめていた、と言ってもいいかもしれない。

今日のセッションで、この考えが手放され、着地させるために、今このnoteを書いている。
曰く、それぞれのために、お互いが存在している。
誰の役からその舞台を見るかで変わるが、重なっている。
見えているところ、見えていないところ、どちらも本当。ただ、状況が変わると、見えている現実の意味や解釈が変わる。
過去の事実は変えられないが、意味は変えられるとはまさにこのこと。

私の舞台に登場する人物は、すべて私という主人公から見たら傍役になってしまう。それはそうだ。物語の主人公、一人称として語るときに語り手はひとりだけ。
でもそれは、傍役を軽んじているわけではない。傍役が一人称になるとき、その物語は彼や彼女だけのものになる。

「(私の視点から見ると、あの子は私が成長するのに不可欠だったので)あの子は私が成長するために生まれた」
「(私はこの病気になったことでこんなことを学んだので)この病気になったのは、私がこんな学びをするためだった」
「(あの人がいたことでこの経験ができたので)あの人は私がこの経験をするために登場した」
舞台上で重なった部分しか見えないからこそ、そこから見える解釈をしてもよい。逆に、それがすべてだと思わなくてよい。

見えていない部分を想像すること、見えていないのにわかってしまうこともあるけれど、それはまた別の話。

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