アセット_7

ある -デフォルトの再設定-

夏休みの最終日。今回の休みはほぼ遠方にも出ず、身近な整えと、友人と会って話をするぐらいの、のんびりしたお休みでした。そんな友人との会話で、すこし気づいたことを書いてみます。
デフォルトを疑ってみる ことから始めないと思った話です。
まだ、自分でも整理しきれていないので要領を得ない&長文ご容赦ください。

顧客の課題を解決してはいけない?

友人に、今取り組んでいる行動デザインのツールの紹介をすると、面白いけれど、それでいいの?との疑問を呈されました。より生活は効率的になり、やりたいことがやれるようになるものを手助けするツールなので、いいかなと思っていたので、正直意外な反応でした。が、次第に、時間とともに友人が言ってくれたことの意味が分かってきました。
顧客の課題を発見し、それを顧客基点で解決すること。
僕らはこれを疑わずに、様々なプロジェクトに取り組んできているけれど、この考え方が、果たして、正しいの?という疑問だったのです。

テクノロジーはくらしを豊かにする?破壊する?

その友人とは、6年前から途上国の雇用創出に貢献する酒造りのプロジェクトを一緒に取り組んでいます。ちょうど6年前の今ごろも、フィリピンで、ココヤシジュースからつくった醸造酒を蒸留する実験を行っていました。

上記の写真はその当時、現地の材料でお手製の蒸留器をくみ上げたもの

新興国の社会課題にデザインができること。当時のメンバーとの議論では、魚をあげるのではなく、魚の取り方を教える。という逸話を例にディスカッションしたこともあったのですが、今思えば、傲慢すぎる。。。と反省するところもあり。魚の取り方のエピソードに近いものでは、井戸を掘って水をとれるようにした結果、管理されない井戸に毒物が流れ込むようになり、村の健康被害が出た話など。ソリューションは、点ではないということも、当時は議論されていました。でも、今思うと、一番気になっているのは、魚の取り方を教えて、そして、皆が魚を取るようになった際に、世界がどうなるのかということ。資源やエネルギーの問題には触れていたのだけれど、一番気にしていたのは、多様性を損なう、世界の均質化のことでした。そのあたりにことは、当時感じていた可能性と課題に関しては、記事にも残していました。

鶴見良行さんや、宮内さん、赤嶺さんの仕事や著作を知ったのも、この頃で目の前にある食べ物そのものが、ネットワークを含んでいる。すでに、インターネット的なメッセージのやりとりができる可能性を持っていることもし知ったし、そういったネットワーク性が消費の暴力で変質することの難しさも知りました。

時間概念のデフォルト

この休み中に友人が思い出したように話してくれたのは、現地でココヤシの実をナタで切ってジュースを取り出している作業をしていた日のこと。ココヤシの実からジュースを取りだす作業が大変かつ、短い期間で行う必要があるので、知り合いの工場で働くラオス人の若い人たちにも手伝ってもらっていた。そんな手伝いをしてもらい、それぞれの家に彼女たちが帰っていくときに、今日は家に帰ったらその後の予定は?と質問をすると、キョトンとされたと。ごはんを食べて寝る といういつもの繰り返しがあるだけで、予定という概念があまりない感じの反応だったと。

限られた時間をいかに有効につかうのか、僕らは当たり前に思っているのですが、本当にそうでしょうか。

僕らの感覚だと、Aが終わると、次にBをして、Cをやりたいから、そのためには、時間を圧縮してと考えている。僕らは、より多くのコトを成し遂げないとって、デフォルトで思っているのだけれど、それって、あれ、どうして必要なんだっけと。そういえば、4歳の娘を見ていても、予定の概念はあまりなく、遊びたい、学びたい、見たい、やりたい という気持ちで行動していて、疲れたら寝ています。
そもそも、時間は使うものなのか?そこから考えるのが良さそうです。時間と人生に関して、大事なことを忘れない、優先度をつけることが大事という話は、折に触れてよくされます。学校や研修で習ったのは、マヨネーズ瓶と小石のエピソードを聞いたことがある人も多いのではないでしょうか。あらためて、デフォルトを疑うと、この時間を使うという、捉え方自身が、僕らの忙しい生活に拍車をかけているのではないか、そういった疑念がふつふつと沸いてきました。

共通の時計が、全世界に広がっている

全世界でコラボレーションできるツールはおそらく素晴らしい、インターネットとデジタルを通じて、全世界で共通の時計を共有して、製造や生産はどんどん加速している。僕らも仕事を通じて、そういった価値観をサポートするものを作っている。でも、この速度やスピードのメーターをみて、安全運転をガイドしてくれるヒトがいる分けではない。どこかで、生活のアナログの、具体的な生活の制約の中で、目を覚まさないといけないのかもしれません。

食べ物が「ない」ということが「ない」

先日、スープ作家の有賀さんとディスカッションをしているときに、今の人たちは、食べ物が簡単に手に入る状態なので、食べ物がないという状態、飢餓の状態を想像したことがない。昔は、ない からスタートしたので、より栄養のあるものを、必要な量を食べることに、苦労していたのだけれど、今は食べ物は多様な選択肢があるところがスタート地点になっている。そんな話を聞きました。
 ない状態だと、あるものをどう美味しく食べるかが、どう栄養をとって食べるの知恵が働いていた。僕らは、もう一度、この知恵のありかを探る必要ががある気がしています。
  有賀さんの「スープレッスン」をその友人に見せると、ラオスの現地で食べている料理も、だいたいこういった感じのものだよねとのコメント。手に入るものを素朴の基本的な調味料で調理をして皆で食べる。これが、最初のベーシックであることは、全世界共通なのかもしれません。

「ない」と「ある」のトレードオフ

「ない」と「ある」はトレードオフで、何かを得ると、何かを失うトレードオフの関係もいたちごっこなのですが、下記の3つのステップをたどる気がしています。トレードオフではなく、トレードオンの平衡状態が見つけらればよいなと、いつも思っています。

①欲望の第一段階 ない→ある
欲しいという気持ちは、「ない」ということを気づかせることから始まり。
②欲望の第二段階 ある→ない
それが「ある」ことで、損なわれるものがあることの説明書きは往々にして不十分だったりします。家電は、家事の労働時間を削減し、女性の社会進出に貢献したといわれるけれど、子供の家事のお手伝い時間を減少させてもいる。モノゴトは得るものと失うものバランスで出来上がっているものが多くて、それに気づきます。
③安定の平衡状態 あるとないのバランスを見つける
トレードオフの関係の中で、自分の最適なポジションをみつける。「ある」ものを理解して使い、「ない」ものを自身の取組で折り合いをつける。この折り合いをつけるということが、今大事なデザインプロセスなのかもしれません。

課題の解決の前に デフォルトを再設定する

課題を解決することは、物やサービスを付加することだけでなく、認識や認知を変えることも含まれます。①と②の循環から抜け出して、その人の人生の問題に、その人が向き合えるようにすることが大事なのだと思います。
簡単な解決の提供は、永遠に本質的な解決から遠ざかり続けることなのかもしれません。
 時間を短縮するツールをいれて、効率性があがるツールを導入することで、より忙しくなっていたり、対処療法はまた、次の課題の温床となります。時間に関していうと、時間が足りない。時間をお金を買う、時短テクニックを駆使する、機械やAIで代替するという解決方法はたくさん増えるけれど、結果忙しさはなくならなかったりするのは、認識の問題かもしれません。なぜなら、その時間を味わっているときには、ヒトは、それを忙しいと言わないと思います。忙しいと思うとき、それは、おそらく自分の時間が生きられていない時にでるものなのだと思います。時間を使うのではなく、味わえるようにすること。この問いから、まずは自分自身の様々なデフォルトを再設定するところからはじめてみるのが良さそうだなと思い始めています。

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