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自分のアタマで考える|何者でもない雑草キャリアが何者かになるまで
こんにちは、さやです。
自分の強みを自覚して何かの専門家になるべく、いろんな挑戦を続けている近頃。
いろんな方とお話をしたり、動画を見たりして刺激をいただいています。
そんな中で、特に自分が大切だと思っていることに気が付きました。
それは、「自分の頭で考える」ということです。
今日は、「考える力」について書こうと思います。
『自分のアタマで考えよう』
このフレーズ、聞き覚えのある方がいるかもしれません。
社会派ブロガーとして人気のちきりんさんの著書のタイトルです。
(広告ではありません)
ずいぶん前にこの本を読んだのですが、私はこの本や一連のシリーズが大好きです。
もともと試行錯誤が好きな私ですが、この「自分のアタマで考える」という行為自体、自分の人生を自分で謳歌していくために必須のスキルだと思うのです。
「私、頭が良くないから考えてもわかんないし」
「意識高い系じゃないから、そんな深く考えてないし」
そう思う方は、ぜひ一度読んでみてください。
考えることの大切さ、考えるプロセスやポイントがすっと理解できると思います。
考えることへの義務感
私は、自分で考えることに義務感や危機感を覚えて生きてきたように思います。
理由はいろいろあります。
1つは、母親の影響だと思います。
私の母は、たぶん考えることが苦手な人でした。
自分に何か不幸が訪れたとき、そこから抜け出そうと試行錯誤するよりも、我慢して耐え抜くような人です。
私はそれが苦手でした。
耐え抜いた先に不幸が勝手に消滅することはなく、ただ不幸に慣れるだけだという姿を、間近で見てきたからです。
不幸や不満に抗うことをしなくなると、小さな出来事に対しても無力になり、無気力になります。
そのうち、現状維持こそ一番無難と考えるようになります。
そうじゃない、自分で考えて成功の道を見つけるべきだと他人に言われると、過剰に拒絶するようになります。
私はそれが、幸せな人生だとは思えませんでした。
だからこそ、子どものころから人一倍考える癖があったと思います。
子どもにできることは限られているので、実行できるかは別の話。
でも、どうしたらよくなるかを考えることはできます。
今起きている事態の全体像は何か。
何が原因で起こっているのか。
どこをどうしたら改善するのか。
もしくは、何がどうなれば私は幸せか。
そのために、何が必要か。
今動くべきか、様子を見るべきか。
そんなことを考える癖がついたように思います。
考えないこと、動かないことがもたらす未来を知っているからこそ、「考えなきゃ」「動かなきゃ」と脅迫観念のように思考し続けていたのだと思います。
大学教授の言葉
それからもう1つ。
私が自分で試行錯誤する大切さを実感したエピソードがあります。
それは、通っていた大学で出会ったとある教授の言葉です。
私は大学時代、学内放送用のテレビ番組を制作するサークルに所属していました。
学校に立派なスタジオや撮影機器、編集機器などが揃っていて、自由にそれらを使いながら、企画・撮影・編集・放映を行える恵まれた環境にあったのです。
そんなサークルの顧問をしていた教授が、ふとこんな言葉を口にしたことがありました。
「最近の若者は、テレビがつまらないだ、あの映画はクソだっただ、ただ消費するだけのくせに文句ばっかり。そんなにつまらないんだったら、文句言ってないで自分で作ればいいだろ。自分で作る方が、何十倍も楽しいってことを知らないなんて、不幸な奴らだ」
こんな感じのセリフでした。
口が悪くて、ちょっと変人チックだった先生。多くの学生からは煙たがられていましたが、私は先生を尊敬していました。
そんな先生のこの言葉は、生涯私の忘れられない考え方になっています。
作り手や主体にならずに、文句しか言わない外野はカッコ悪い。絶対そうはなりたくない。
そして、作り手や主体はしんどいことも多いけど、外野でギャーギャーいうだけでは絶対に手に入れられない喜びや達成感を得られる。
そう信じてきたし、その信念に沿って生きてきました。
自分で考えて、自分で動く。
今までの人生で人に誇れる偉業を残してきたわけではありませんが、それなりに満足しているのは、自分で考えてきたからです。
人の考えに便乗して成功したら自分の功績のように自慢したり、失敗したら人のせいにしたり。
そんなのは本当にかっこわるい。
そんなかっこわる人間にだけはなりたくないな、という想いがあります。
考える努力
こういう話をすると、「さやさんは賢いから」とか「思考のレベルが高いんだ」みたいに言われることがあります。
この考えも、あんまり好きではありません笑。
あの人は私と違うからできる、という考えこそ、思考停止だと思うからです。
あるいは、自分が試行錯誤しないことへの免罪符にしているだけだと思うからです。
生まれつき差があるかなんてわからないはず。
なのにどうして、行動している人を見て「あの人は素材から違う」なんて思えるのでしょうか。
考えて行動している人は、圧倒的に努力している人だと思います。
最初から考えることが得意だったのではなく、考える特訓をしてきているからだと思います。
もちろん一部のずば抜けた天才はいるのでしょうが、ほとんどの人は努力の結果です。
その努力や苦労を見ようとせず、才能や生まれつきの特異性だと決めつけるのは、努力している人に対して失礼だとすら思います。
考えることに、得意不得意はあるのかもれません。
でも、考えるからこそ人間。
「人間は考える葦である」
フランスの哲学者パスカルはそう書き残したそうですが、本当にその通りだと思うのです。
人生100年時代だからこそ考える
そんなパスカルが生きていた時代より、人間の寿命はだいぶ延びたようです。
考えなければいけない時間は、もっとずっと長くなりました。
考える時間が長くなったことよりも、考えるべき対象時間が延びたことが、重要だと思うのです。
人生が50年で終わるなら、この50年の生き方を考えれば良いだけ。
でも、人生が100年になるなら、考えるべきことは多分2倍じゃすまないはずです。
老いてもなお自由に生きるために、今何をすべきなのか。
5年後、1年後の未来すら予測できない時代に、あと50年以上生きるためにどうあるべきか。
思考すべき課題の難易度が上がっているように思います。
難しい問題は、思考から逃げたくなるもの。
だからこそ、目の前の小さい課題に向き合って、考える癖をつける必要があります。
目の前のタスク、今日の仕事に向き合うことができるようになれば、1週間のスケジュールを見通せるようになります。
週間スケジュールが把握できれば、月間、年間の感覚も少しずつつかめます。
把握することができない5年や10年のスパンから逆算して今日を考えようとすると、思考できなくなるのは仕方ないこと。
まずは目の前の課題と向き合って、1つずつ「完了」させたと実感することこそ、今やるべきことなのだと思います。
考えて、行動し、振り返る。
ここまでして完了です。
そうやって日々が流れ去っていくのではなく、完了していく感覚が持てれば、大きな期間を思考できるようになるのだと思っています。
今日はずいぶんと概念的なことを書きました。
でも、これは私が日々とても重視している大事な考え方だと思うので、noteにも書き記しました。
noteへのアウトプットは、自分の思考の整理に本当に有用です。
手軽に書けるし、自分の中から思わぬ言葉が出てきて、自己認識もすすみます。
誰かが読んでコメントをしてくるのも、とてもありがたいことです。
つまらない独り言みたいな日も多いのですが、またお読みいただけたら嬉しいです。
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