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いつかあなたと花降る谷で 第3話(10)

 家に着いたら飛竜を帰し、庭で緊張感に包まれた彼である。
 対するフィーナは嬉しそうにして、自分を見下ろしてくる彼を、可愛い顔で見上げていた。
 フィーナの薄い金髪が、暖かくなってきた風に乗る。山の緑は彼女の瞳(め)より濃い色に変わったが、彼女だけ時が止まったように明るい色のままである。
 華やかな都では、美しい娘をそれなりに見た。権力者が美しい娘を延々と娶るものだから、段々そちらに寄っていくのは自然の理という風である。王侯貴族の家の娘は飾り立てるのが上手いので、より美しく、華やかに、贅を尽くして見えていた。
 それが好きな男も多い。野心があれば狙うのだろう。何故なら美しい娘の側には、富と権力もあるからだ。王侯貴族が延々と綺麗な娘を娶るので、やはり富と美しさが寄るのは自然の流れなのである。
 そちらを欲しいと思わなかったマァリが変わっていただけで、素朴で柔らかな美を好む彼の幻獣族らしい感性だから、それを体現したようなフィーナという妖精は、比べるまでもなく一等美麗な存在だ。
 相手は意識の面でも自分よりよほど「子供」だが、彼にとったら十分な対象者なのである。庇護の対象でもあるけれど、崇拝の対象とも言える。頭が上がるわけがないのである。彼女の頭の先から足の先まで好きなのだから。
 どうしようもなく愛しい人が、額にキスをして、とせがんでくるのだ。自分のような悪い大人に、可愛い顔で「キスをして」と。空の上では高揚もあり、勢いで出来たことだけど、地に足をつけ冷静になったところに、そのお願いは重かった。
 決して嫌な訳じゃない。自分が、軽くて気障な男みたいで、恥ずかしいだけである。フィーナのような純粋で綺麗な存在に、チャラっとキスなんかしちゃいけないと思うから。
 フィーナのきらきらとした期待の籠った視線を見ると、屈するしかないマァリだが、彼女の前髪をどけた指先は、実は笑われそうなほど震えていたりした。
 フィーナは近づいてくる彼の美麗な顔が、先ほどよりも赤く染まっているのに気がついた。もしかして無理を言ってしまったのかしら……? と、思ったから目を閉じる。恥ずかしい、と空の上でも言っていたから、悪いことをしたかも、と、ちょっとは反省したようだ。
 額へのキスは一瞬だった。ちゅ、と音のないキスが終わって、悪いことをしたかも、なんて反省は吹っ飛んだ。何故かというと、それはとても、フィーナの心を満たしたからだ。むずむずとする喜びは、彼に愛情を貰った、という、心の温まるものだったから。
 同時に、彼女の女の部分が密かに満たされたのだ。自覚のない女心だが、彼の気持ちを確認できた。照れ臭そうにしてくれたことで、彼も意識してくれている、自分と近しい気持ちになってくれているようだ、と。

「ありがとう、マァリ」

 うふふっ、と。嬉しそうな顔をしてフィーナは家の方へ行く。笑顔があまりに眩しくて、照れたマァリも「いいか」と思う。あんなに嬉しそうにしてくれるなら、緊張した甲斐があるというものだ。都で見てきたプレイボーイが、顔色も変えずにやっていたこと。慣れたら簡単にできるのか、と、差を思って意識を変えた。
 とりあえずまだ空も青いし、夜まで別のことをして気を紛らわせてしまおう、と、畑を広げて野菜を植える。釜の様子も見たいけど、そちらは帰ってきてからだ。
 フィーナは家のことをして、残りは別に過ごした二人だ。夕飯は仲良くシチューを食べて、皆も食べてくれたかな? と。
 今、この家のキッチンは、マァリが街で買ってくれた食材がたっぷりあって、料理の本もあるし、フィーナはそれで時間を潰せる。だけど、無意識に孤独を感じていたように、これが最後の夕食で、しばらく一緒には食べられない。そう感じるから自然と口数が増えていて、離れる時間を惜しむように、いつもより長い夕食になっていた。
 マァリも「早く食べよう」なんて言葉は口にせず、フィーナに付き合って、夜の時間をゆっくり過ごした。旅行の時のような苦悶の時間を過ごす訳じゃなし、睡眠時間が消えたとしてもなんて事もない体である。
 その後も仲良く食器を洗い、順番にお湯を浴びた。いつもならフィーナはそこから自室に下がるけど、名残惜しいのかリビングの明かりがついていて、マァリが顔を覗かせると「おやすみなさい」と立ち上がる。

「うん。おやすみ」

 言いながら、家の明かりを消しに動いたフィーナを待っていた。
 それから仲良く横に並んで、手前の部屋のマァリ、奥の部屋のフィーナと、各々の部屋へ入る時間を合わせるようにした。

「気をつけて行ってきてね?」
「ありがとう。フィーナも気をつけて」

 気をつけるところなんかないけどね、と、微笑したフィーナの顔は、やっぱりどこか寂し気だった。それが分かってきたことを喜ぶべきなのだろうけど、自分がもう一人居たらなぁ、と、マァリは詮無いことを考える。
 部屋のドアを閉めたなら、夜半になるまで、ゴロゴロとベッドに転がった。持ち物はどうするか。元々荷物を携帯するような人間じゃなく、ライオネットの発明品と交換するためのジャンク品を、一つ……では不安だから二、三個集めて来れればよかった。それなら耳飾りの容量で十分で、弓矢を置いていけば空くかな、と。
 人間が開発した荷物入れ。耳飾りの形態をとるそれに手を触れて、中から標準的な弓と、筒にまとめられた矢を取った。久しぶりに手にした武器だから、いつも通りに手入れして、彼はフィーナが驚かないよう荷物袋の中へ入れる。こちらの荷物袋は竜族が発明した魔道具で、人間が開発したものよりも荷物を入れられて、使う人の認証諸々、機能としても良品だ。
 自分が死んだらフィーナにあげても構わないので、気にせず置いていくけれど……とマァリは思い、間違いなくフィーナより長生きするだろう自分のことを、嘲るように微笑んだ。
 暫くマァリの気配を読むようにしていたフィーナだが、眠気には逆らえず、夢の世界へ向かったようだ。彼女の眠りが深くなる時間を見積もって、彼はそっと家を出る。
 今回は動きやすく、生地が厚めの、行軍用の服を着た。平民の体で行くので武装はしない。ただ、フィーナに語った通り、体が鈍ってきたので、タイムアタックのようなことをしようかと考えた。
 初夏に移ろう穏やかな谷を見て、体を動かしながら準備を行った。若い男の引き締まった体の影が、フィーナの家の方に伸びていた。マァリの気分的には若い男の時分は過ぎたが、一般的にはまだまだ若い類である。
 短くなった髪のおかげで風の音がよく取れる。
 突風が吹く気配を読んで、マァリは谷へ飛び込んだ。

 しん……とした深山には、暫く静寂が訪れる。

 小さな人間一人が与えられる影響なんて、殆どない、というのが実情だ。
 まして、この谷は深すぎる。
 過去、マァリの親友が、丈夫な彼を殺そうと、わざわざ選んだくらいには。フィーナの庭の前に広がる渓谷は、残酷な深さを持って厳格だった。
 遥か前方へと広がるV字谷。自然の美しさも厳しさも、ひと目見れば理解できるほど。そこへ飛び込んだ人間の生死など、誰も気にならないし、気づかない。母なる大地に抱かれ、土に還るだけである。
 マァリは落下しながら谷の美しさに見惚れて過ごす。
 豊かな森の香り。滴り落ちる滝の音。岩壁を埋め尽くす蔦性の植物に、光を求めて迫り出す木々の枝。
 この森の誰の気配もないことを確認すると、一呼吸を置きながら巨大な竜体に変化する。
 ライオネットが好む機材は、ほぼ対角の端である。人間の体では、ひと月以上はかかるだろう。だが、自分の竜体ならば、三日もあれば足りるはず。幸い、寒さには強い氷竜の系譜である。細長い竜体は速さを出すにも適していた。
 彼は落ちた距離を一瞬で埋めるほど、爆発的な加速を出して上空へ登っていった。少し本気を出し過ぎて、谷の底を凍らせた。見つけた人は驚くだろうが、昼には溶けるはずである。細長い氷竜が天へ登った後に降る、細かな氷の欠片が月光を反射する。
 誰も見ていなかったけど、幻想的な夜だった。
 マァリは狙った高さに達すると、時間を惜しむようにして大陸の端へ降りていく。凍える上空もなんのその。竜族の住まう土地も横目に見下ろしながら、タイムアタック、目的の国へ急ぐのだ。

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