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徒然②

「私は間違っていた」と自認したところで、私以外の間違いが正解になるかと言われればそれは違う。正解も間違いもないよ、というのは道徳的に考えればの話であって、目的を定めればそこに正解か間違いかは生まれて然るべきものなのだ。

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この冒頭の文をどういう感情のどのタイミングで書いたかもう覚えていない。最終更新は7月2日の深夜、2週間ほど前のものだ。

考えていることを言語化して垂れ流すことなんて2〜3年前までは延々やっていたはずなのに、最近は自分の感情を言語化できなくなってきている。人様に見せるような刹那的な感情が失われてしまったのかもしれない。知らないうちに、大人になっている。良いことなのか悪いことなのか、上手くいけばそれはきっと社会的には「良いこと」とされるんだろう。ひとつの文章を2時間で書いていた頃の私はもういないのだ。

それでもTwitterは嫌いじゃない。
良くも悪くも、生々しい。

普段お行儀よく生活しているであろう人たちの中にも、ちゃんと負の感情があって、考え方があって、インスタよりもずっと人間らしさが垣間見える。よほどの著名人じゃない限り、自分の強い思想や考え方なんて誰でも見える場所に晒す必要がない。優しいように見えて意外とみんなが残酷なこの世界で、それでも不特定多数に向けて言葉を並べるTwitterという空間は、人間の弱さと脆さをダイレクトに感じられて楽しい。広い公園に寝そべって本を読んでいる感覚に近いかもしれない。そんな綺麗なものじゃないけれど。

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自分が書いたことや考えていたことが、時間を超えてふと何かとつながることがある。それは良いものであれば学びや成長になるが、悪いものであればあるほど後悔になる。予測できていたことを防げなかった、ということは、だいたいの場合なにかしらの怠慢によるものだからだ。

それらを自分が置かれていた状況や時期、時間、お金などあらゆるものに紐づけて無理矢理納得するのは簡単だが、一度それを覚えてしまうとどんどん自分自身に言い訳をしてしまうような気がしてがんじがらめになる。ストイックとは違う、生きづらさなのだ。


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取り留めのない文章を、時間をかけて書いている。
下書きはもう30個ほど消した。

もう文章は書けないのかもしれない。
わたしが大人になってしまったから。

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