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今日も苦しい人たちへ

私は、苦しみというのは2種類あると思います。

一つ目は手放すべき苦しみです。

この苦しみは、自分の中から出てきて、自分自身で生んでいる種類の苦しみです。
これは忌むべきものとして積極的に自分で取り除き、
幸せを目指すべきだと思います。

例えば、自分で作った理想にがんじがらめになって、
結局息が出来なくなって倒れた人。
固定概念から抜け出せずにずっと他人を責め続ける人。
自分で生み出した欲望に目がくらまされて、
次へ次へと走っていくのに
結局は手の中にあるものが常に滑り落ちて
自分はどこにもたどり着けないと嘆いて
いつまでも止まれない人。

自分で自分の首を絞めていて苦しいなら
その苦しみに何の意味もありません。
どうか、その手を放して
幸せになってください。


もう一つは、受け入れてもいい苦しみです。

これは端的に外から来た苦しみです。
自分ではどうしようもない苦しみが時に人生を襲うことがあります。
私は、これは自分にとって大切な苦しみなので
大きく受け入れて飲み込み、食べてしまわなければならないと思います。

病気で苦しむ人も沢山います。
戦争に巻き込まれた人も
事故で足を失った人もいます。
愛しい人が亡くなって
どうしようもない痛みで生きていたくない。
何故自分がこんな目に合わなければならないのか。


世界は循環を繰り返しています。
おそらく世界が出来た当初から大元の成分は全て同じで
それが時代に適した空気と自然と生物を生み
それがまた無に還り、有になり、
リサイクルされているのです。

同じものを何度も繰り返し使っているので
よどみも溜まりましょうし
劣化も起こりましょう
新しいものに見えても
その大元はいつも同じだからです

私は、生物に与えられた苦しみというのは
その命に課せられた浄化作業の役目なのだと思うのです
おそらく、その耐え難い痛みや苦しみを
あなたが背負い、苦しみ、
または乗り越えたことによって
大元の存在から少しづづ
よどみを消しているのではないかと。
その苦しみは母を癒す薬なのかもしれません。

苦しみを受け入れて
それでも笑う人の笑顔が
誰の目にも神々しいのは
おそらく、それが
生命に課せられた母の記憶
またはそれ自体の光なのでは

苦しむ生き物や人々を見るのは
何よりも苦しいです
沢山の善良な魂が今日も苦しみ
自ら命を絶ってしまった
または誰かに命を奪われている

でもそれはきっと
彼らの苦しみの役目が終わり
母なるものに再び抱かれるために
ただ戻っていったのだ

私がここに立ち、
彼らを悼むが余りに引き留めたかったと思うのは
多分、何がが違うのだろう。
きっと彼らはただ課せられた分の苦しみを
誰より早く浄化して
母のもとへと帰っていっただけなのだ

今も苦しいのに生きていてくださるみなさん
今日もありがとうございます
人よりも余計に浄化の役目を背負い
頑張ってくださって
本当に心からお礼申し上げます




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