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バチェラー

 “「独身おじさん友達いない」問題が意外に深刻” という記事がネットで話題になっていて、咄嗟に自分のことを中傷されたのではないかと思って青ざめ、震えながら記事を読んだのだが、そういうわけでもなさそうだった。

 中年になって、気づいたら友達と呼べる人がおらず、会社以外での知り合いがいなくなってしまった、という内容で、まずは新たな場に行って雑談から始めましょう、といった指南が書かれていて面白いのだが、なんとなくしっくりこない部分もあって、なにがしっくりこないのだろうと考えた。

 まず第一に、まだ自分が生物学的にも社会的にも中年とは言えないから、中年になって感じる友達のいない寂しさのようなものが感覚として分からないからかなと思った。

 さらに、そもそも元々友達をそう作りたいほうではなく、よく知らない人への猜疑心も強いので、会社以外で友達がいない、という話を聞いても、まあ社会人になるとそんなものではないのか、という気持ちが先行してしまい、記事内で推奨されているようにわざわざボルダリングジムや居酒屋などに新たな友人を作りに行く、というのも考えられないような面倒ごとだなと感じてしまう。

 つまりこの記事で指摘されている人物像とは年齢層も違えば、パーソナリティも異なるため、なんか分からんなあという感じがするのではないか、と思ったのである。

 ところで、この記事の人物像とはまた違うのかもしれないが、中年おじさんの寂しさ、と書くと、もう字面だけから「ああ、あの手の寂しさね」というのが感覚としてなんとなく伝わってくるのだが、なにかドラマや映画で描かれやすいモチーフなのだろうか。

 全く同じイメージを、うだつの上がらないサラリーマン、という単語からも想像することができる。

 冴えない顔つきで年下の上司に叱責され(提出した書類をばら撒かれたりするカットが入る)、夜遅くにとぼとぼと一人のアパートに帰宅、コンビニ弁当を温めながらテレビを眺め、発泡酒を飲んでいる、みたいなシーンが直ちに脳内に再生される。

 そういう意味で、私のような30代というのは、なにか中途半端な年齢なのではないかという気がしてきた。どうも、ステレオタイプな〜〜〜な30代、というのが咄嗟に思い浮かばない。

 と書いて思うのは「高校生、青春、部活、恋愛、親との葛藤、教師への反抗、喧嘩、別れ、そして、、、」みたいなイメージであったり「大学生、キャンパスライフ、バイト、恋愛、就活、すれ違う二人、、、」みたいなイメージであったり「中年おじさんの寂しさ」同様に、ステレオタイプな人物像というか、周囲の人物とのやり取りを含むある定型イメージがまず自分のなかにあり、それにどれくらい適合しているのか、という評価軸が謎にあるなということだった。

 そう考えると「独身おじさん友達いない」は、自分のなかの定型イメージから外れているためにうまく理解できなかったのではないかという仮説が思い浮かぶ。

 定型イメージのなかのうだつの上がらないサラリーマンは、どこか孤独を愛している雰囲気が漂っており、友達をほしがっていじけている印象が全くないのである。

 しかし友人に尋ねると、確かにうちの課長がまさにこんな感じだというあるある感を持っている人間もおり、こういうあるある感が響き合えば直ちにこの話はピンと来るものになるのだろう。

 こういう誰かにとって新しい人物像を提示するときは、おそらく詳細な、その人をイメージさせる「細部」が必要なのだろうなと思う。

 小説を読んでいても思うのだが、ここ分かる、と共鳴できるというポイントは、細部に存在している。この細部の積み重ねが、遠目に新たな人物の輪郭を構成し、その輪郭が世界に認識されると、同じ輪郭を持った人物が次々に小説や漫画や映画で描かれ、ステレオタイプになっていく、という流れがおそらくある。

 ある人にとって共鳴できる細部が少なくても人物像が輪郭を保つためには、単純に細部の数が必要だったりもするのだろう。

 最近、小説も書くようになったのでこういうことをよく考えるようになった。30代のうちに、あちこちで真似されるような30代の輪郭をくり抜いてみたいものだなとも思う。

 そのようなことを考えつつも、現実逃避で&auditionという10-20代前半の少年たちがデビューを目指す番組を、少年に同一化しながら見ていたのだが、友人からいつまでそんなことをやっているんだ、と叱責されてしまった。

 30代なら、30代の出ている番組をもっと見た方がいいのではないかというのである。

 勧めをうけ視聴し始めたのはバチェラーという番組で、器量が良く高知能で運動神経も神がかっており並外れた成功を収めている一人の30代の独身男性が、15-20人程度の女性たちとデート行為を重ね、自分に最も相応しいと思われる女性一人を選択するというリアリティ番組であった。

 番組はオーディション番組と同じくデスゲーム方式で進む。すなわち、各話の最後にローズセレモニーといって、自分が相対的に良いと思った女性に薔薇を渡す、という儀式があるのだけれども、必ずその渡せる薔薇の本数は女性の数より少なくなっている。

 つまり、椅子取りゲームのようなもので、男性のお眼鏡にかなわなかった女性がその場で脱落するのだが、終盤に近づくにつれ主要キャラが脱落していくため、視聴者は一体誰が脱落するのかを固唾を飲んで見守らざるを得ないような心境になってくる。

 まあ、つい次々にみてしまうようなおもしろ番組なわけだが、ここに登場するバチェラーは、一つの30代男性像の輪郭を作っているなと感じた。

 実際にそういう人間なのかどうかは不明なのだが、バチェラーシリーズ(シーズン4まである)に登場する男性はみな非常に発揚した気質で、沖縄やグアムといった南国で鍛えられた黒い肌を晒しながら「楽しんでいこう!」と叫んで海に飛び込んだり、ヘリコプターや気球といった飛翔体に女性を乗せて驚かせることを、常軌を逸した程度で楽しんでいる。

 さらに、「とにかく本音で喋ってほしい」「まだ距離感を感じる」「素でぶつかり合いたい」「皮を一枚剥げればいいなって思います」などととにかく女性の素の姿というものに固執する傾向があり、見ているこちらも「まだ本音じゃないな、それじゃダメだわ」などといつの間にかバチェラーに同一化して思うようになってしまう。

 正直身の回りにそんな人間は一人もいないため、そういう脚本なのかもしれないという疑念が払拭できないのだが、もし脚本だとすれば、一つのバチェラーという人物像を描くことに成功しているのではないかと思う。

 つまり、もし脚本があるのだとすれば、それはある点における複雑性を排除することで人物像の輪郭を浮き彫りにするという作業をしているのだろう。

 その脚本に一致しうるような性質の人物が、そもそもキャスティングされているというようなところもあるのかもしれない。

 例えばここに尾久がバチェラーとして登場したらどうか。

 番組として成立しないことが確定している。

 そもそも、見た目が素敵ではなく運動は全くできない。海や山などには絶対に行きたくないため、すべてのデートが新宿周辺で済まされ、紀伊國屋やタワレコをぶらぶらする、カフェで3時間座っている、映画をみる、また紀伊國屋に行く、といったデートが1話から10話まで延々繰り返される。

 サプライズなども好きではないため、一度も飛翔体が登場することはなく、せいぜい都営新宿線に一緒に乗ったり、タクシーに乗ってS.RIDEでスマートに会計をする程度しか見せ場がない。

 本音で気持ちをぶつけられたりすると引いてしまったり傷つく可能性があるため、できるだけ表面的な会話が続き、本音を言った人から脱落していく。最後の一人も番組を意識した無難な人を選んでしまい、番組が終わったあとにどうして俺は人に気を遣ってこんな人を選んでしまったんだ、と苦悩する。

 みたいな地獄の様相が繰り広げられるだろう。

 バチェラーとしては成立し得ないが、こういう人間の細部を積み重ねて人物像を構築していくことはきっと可能で、それを今後やるべきなのだと思うし、それの第一弾が「偽者論」なのである。

 今月号の文藝の特集が私小説だが、「偽者論」にもある角度からみたときに私小説的側面はあると思っていて、そちらも是非楽しんでもらいたいし、驚いてほしいなって思います。

 素直に読んでほしいし、自分の皮を一枚破って読んでほしいです。

 と、いつの間にかバチェラーに同一化してしまう癖がついたので、男女逆転版のバチェロレッテという番組でも今度は見ようと思う。



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