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#3 おコメ大好きが語るお米の話【2-②】奈良~江戸時代:コメ=税金の時代が1000年以上!白米は奈良時代から食べられていた、昔は良い品種を選んで植えるだけ

こんにちは。年間600種類の有機野菜や、こだわりの食材を扱う『食の診療所 カメリーノ』(兵庫県西宮市)です。
今回はコメの品種改良の第二期について記述していきたいと思います🌾

◎第二期:奈良時代~江戸時代コメ=税金、「白米」の登場、分離育種法の時代

〇コメ=税金の時代が1000年続く


7世紀になると中央集権的な国家が確立され、様々な法律(律令)が制定されます。
そんな中、コメは税金として扱われるようになります。
この制度は(途中いろいろありますが…)基本的には江戸時代が終了するまで続きます。
実に1000年以上コメ=税金だったわけです。

〇「白米」の登場


さて「白米」ですが、農民が積極的に選択したことで栽培され始めます。
具体的にいつから栽培が始まったのか明確ではありませんが、奈良時代の記録には貴族が白米を食していたことが書かれています。

橿原市 かしはら探訪ナビより

ちなみに庶民はヌカの残った米に雑穀を混ぜて食べていたようです。。
庶民の食卓は江戸時代まで似たような感じが続きます。

橿原市 かしはら探訪ナビより

また木簡(荷札)には「白稲・しろいね」「白和世・しろわせ」「畦越・あぜこし」「荒木・あらき」「足張・すくはり」「長非子・ながびこ」といった品種が記録されていて、“白”という字からこれらは「白米」だったと考えられます。
ちなみにこれら品種名は江戸時代の文献にも出てきており、同名の品種はつい50年前まで栽培もされていました。
(まぁ名前だけ同じで、実際の品種は異なるものの可能性はありますが…)

木簡庫 奈良文化財研究所より

〇「白米」は特権階級の食べものだった


かつて庶民が白米を食べることができなかった理由は大きく2つあります。

1つ目は、コメが税金だったため、食べる分には十分な量が確保できなかったこと。そのため、庶民はコメ(玄米)に麦などの雑穀をまぜて食べることが一般的でした。
(江戸時代の税金は五公五民といって収量の50%を税金でもっていかれていました…。えげつない…。)

2つ目に、精米作業が大変だったこと。精米する労力、コストを考えると玄米のまま食べよう、ってことだったんですね。

「白米」の登場により玄米や「赤米」が完全に淘汰されたわけではありません。
玄米は今では健康に良いと人気を博していますし、「赤米」も明治時代の品種改良の時代がやってくるまで広く一般に育てられていました。
(朝廷や権力者たちにとっては白米を食べる時、優越感に浸っていたのかもれませんね。)

奈良時代の貴族のくらし|社会の部屋|学習教材の部屋より

〇「白米」食が脚気(かっけ)患者を増やした!


江戸時代になると、農民も白米を口にできるようになってきます。
特に都市部では、火災などの対策のため一日分の米を一度にまとめて炊くようになります。
傷みやすい玄米や雑穀米ではなく、保存のきく白米が好まれるようになるわけです。

ところが、米の胚芽に多く含まれるビタミンB1は、精米によって取り除かれてしまうため、ビタミンB1欠乏症である「脚気 かっけ」になる人が江戸を中心に増加します。
脚気になると、神経の障害によって手足が麻痺し、しびれなどを引き起こしたり、重度になると、心臓に障害を起こし死亡してしまいます。

白米(おかずはほとんどなし)が普及した江戸で流行したため、脚気は「江戸わずらい」などと呼ばれていました。
(ビタミンは体内では生成できず、食べ物に頼るしかないんですよね…。)

〇森鷗外の誤断により陸軍は脚気の死者多数!


後述しますが、明治時代になるとさらにコメ=「白米」の流れが加速します。
脚気が国民病になり、特に軍隊の中で流行します。

ちなみに脚気への対応は陸軍と海軍で異なります。
あの『舞姫』や『高瀬舟』を書いたことでも有名な陸軍軍医の森鷗外は、脚気の原因が細菌にあると考え、兵食改善を行わず、日清戦争では4000人以上、日露戦争では2万7000人以上の陸軍兵士が脚気で死亡します。
当時の陸軍の兵食はコメ6合(副食ほぼなし)だったため脚気にかかりやすかったんですね。

森鷗外
文京区立森鴎外記念館より

ちなみに、海軍は海軍軍医の高木兼寛が、脚気の原因が食べものにあることをいち早く見抜き、兵食に麦飯を取り入れたことで脚気にかかるリスクを激減させます。
海軍兵士の脚気による死亡は日清戦争でゼロ、日露戦争ではわずか三人でした。(マジかよ…って差ですね。。)

〇良い種を選んで植える「分離育種法」

では栽培方法はどうだったのでしょうか。
江戸時代までは「分離育種法」といって、もともとあった稲の品種の中から優れた特徴をもつものをピックアップして植えていく、という原始的なスタイルでした。

江戸時代(前期・中期)は優良品種の持ち出しは厳しく制限されていました。これが江戸時代後期になってくると次第に、優良品種が各地に伝播していくようになります。(他藩の美味しいお米を食べた時に衝撃が走った地域もあったかもしれませんね)

そして明治時代になり、コメの商品化、収量を求める一大ムーブメントが到来し、品種改良に新たな方法が取り入れられます。

次回は第三期について記述していきたいと思います!

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