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【掌編小説】そろそろ

 そろそろだ。僕は窓から見える遠くの給水塔を眺めていた時にあらためてそう思った。よく晴れた日曜の午前だった。三分前まで土砂降りの雨が降っていたのに、顔を洗っている間に雲がなくなっていた。窓を開け、植木鉢を窓際の陽の当たる場所に置いた。街路樹の緑がさわやかな風に揺れていた。給水塔の上に雨雲の欠片が残っている。そろそろだ。エリと別れなければいけない。
 僕らはちょうどそれぞれの恋人からプロポーズされていた。エリはコウから、僕はミサトから。僕らはそれぞれそのプロポーズを受けようと思っていた。彼女は結婚するならコウと決めていたし、僕も結婚するならミサトだと思っていた。来週の月曜日にOKって言うね、とエリは五日前の電話で言った。じゃあ、僕も来週の月曜日にOKって言うよ、と僕は言った。私達、そろそろ別れなくちゃね、と彼女は言った。そうだね、と僕は言った。そして月曜日はもう明日だ。
 僕は電話を取って、エリに電話をかけた。話し中だったので、十分後にもう一度かけた。電話してた?と僕が訊くと、ううん、あなたこそ電話してたでしょ?と彼女は言った。僕らは同時にお互いにかけていたのだ。
「今から、会えない?」と僕は言った。
「私もちょうど同じこと訊こうと思ってたとこ」と彼女は笑って言った。
「晴れたし、ぶらぶらしてランチでもしようよ」
「いいね」
 僕らはいつもお互いの住んでいる街のちょうど中間の街で会う。駅前で待ち合わせをして、手を繋ぎながら街をぶらぶらと歩いた。彼女はいつもは大体ズボンなのに、その日は白のワンピースを着ていた。今日に限ってそんなに可愛い恰好してくるのはずるい、と僕は言った。彼女は笑いながら、ずるいでしょ、と言った。
 僕らはずっと手を繋いで、ウィンドウショッピングをしたり、路地裏を散策したり、公園のベンチに座って心地良い風にあたりながら子供達が遊んでいるのを眺めたりした。時々盗み見る彼女の横顔は、なんだかいつもよりも子供っぽく見えた。子供達の母親が、そろそろご飯よ、と呼びに来て、子供達が行ってしまうと、僕らは二人で空いたブランコに座った。
「ねえ、私達、こんな風になってからどのくらいになる?」と彼女がブランコをこぎながら言った。
「三年くらいか?」と僕は言った。
「そんなにはならないでしょ」
「二年半くらい?」
「いつからこんな風になったんだっけ?」と彼女はとぼけて言った。
「覚えてるくせに」と僕は笑いながら言った。
 彼女はミサトの友達だった。ミサトから紹介されて、よく三人で遊んだ。そこにコウが入ってきた。コウもミサトの友達だった。僕らは四人で遊ぶようになった。四人で休みを合わせて近場の温泉に旅行に行った時、僕はエリを抱きしめて、キスをした。その時、ミサトはまだ風呂から帰ってきていなくて、コウは買い出しに行っていた。旅館の部屋でエリが一人、髪を梳かしていた。僕がマッサージから部屋に戻ると、彼女は振り向き、帰ってきたのがコウではなく、僕であることに一瞬何かを言おうとしたが、何も言わなかった。僕らは部屋の入り口と部屋の真ん中で見つめ合った。僕はずっとエリが好きだった。出逢った瞬間から。これが一生に一度の恋なのだと、初めて彼女を見た時に思った。
 青い空が遠くにあった。僕はブランコを少しだけ高くこいだ。エリは、なつかしいね、と言った。なつかしくなんかない。僕はブランコから飛び降ると、彼女の前に立った。彼女はブランコを止めて、僕を見上げた。全然なつかしくなんかない、と僕は言った。一生、なつかしくなんかならない。
「このまま二人で駆け落ちしようよ」と僕は言った。「ずっと遠く、誰も知らない街にさ」
「どこら辺?」と彼女は言った。
「海沿いの街なんかいいんじゃないかな。貯金もそこそこあるから、手頃なアパートでも借りて、二人で住もう」
「コウ君とミサトは許してくれるかな」
「許してくれるよ。駆け落ちするほど本気だったとわかったら」
「私、実はコウ君にはミサトの方が合うってずっと思ってたの」
「俺もミサトにはコウの方が合ってると思ってた」
「でも、こういう考え方もあるよ」と彼女は言った。「別にお互い結婚したからって、好き同士であるのをやめる必要なんかないでしょ?今まで通り、こっそり会えばいい」
「確かにそういう考え方もあるね」そう言った後、急に心が苦しくなった。「僕はエリが好きなんだ」
「私もリョウ君が好きだよ」
「明日、ミサトにOKって言うよ」
「私も明日、コウ君にOKって言うね」
 風が吹いた。どこかで火が燃えているような匂いがした。
「僕が結婚してくれって言ったら、どうする?」と僕は訊いた。
「ごめんなさいって言う」と彼女は微笑って応えた。僕はあの時みたいに、彼女を抱きしめて、キスをした。
 僕らは手を繋いで歩き始めた。ご飯を食べよう、と僕は言った。うん、お腹減った、と彼女は言った。
「何がいい?」と僕は訊いた。
「いつものオムライスかな」と彼女は言った。
「やっぱりここではあれが一番だよね」
 僕は繋いだ手を固く握った。彼女は固く握り返した。

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