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【掌編小説】ボクシングと彼女の豊満な胸

 彼女の振り上げた拳が思いきり僕を殴りつけてくる。肩、それから胸。最初は痛くないふりをしているが、本当はすごく痛い。彼女は僕が我慢しているのを楽しんでいるみたいだ。胸を何度も叩く。僕は拳を手の平で受けながら、ちょっと待って、と言う。そんなに何度も殴っていいなんて言ってない。一回だけだ。
「なによ、一回なんて。男らしくない」と彼女は言う。
「世の中の女性は男らしさを勘違いしてる」
「男らしさは女が決めるものでしょ」
 言うが早いか、また胸を殴る。僕の胸がベルリンの壁のように強固だって、さすがに痛い。僕は彼女の手を掴む。彼女は怒ってそれを振りほどこうとする。僕は手を強く握る。彼女はもう一方の手で僕の腕を叩く。僕が手を放すと、今度は顔を狙って殴りかかってくる。僕はそれをヘッドスリップでよけて、彼女の脇から背後に回り、彼女を後ろから抱きしめる。だてに若い頃ボクシングを八年もやってない。アマチュア戦績、二十戦十五勝。僕を最後に倒したのはホセというメキシコ人で、その時の試合で鼻が折れ、肘を痛めてしまった。それで僕はボクシングをやめた。やめてから五年が経つが、素人に負けることは絶対にないし、ましてや女のパンチなんて目をつむっていたってよけられる。彼女は少しだけもがくが、僕が彼女の首筋に鼻と唇を寄せる頃にはもう体から力は抜けている。彼女の匂いがする。真夏のフルーツのような甘い匂いだ。僕は彼女を愛している。伝え方が少しだけ下手なだけで。でも、彼女は僕の愛が信じられない。人間の心なんて爪を切るみたいなものだと。僕らは古い心を切り捨て、新しい心を宿す。春になれば古い心を脱ぎ捨てるし、冬が来れば新しい心を着込む。僕が彼女を愛するのは明日までで、明後日からは別の眼鏡の女の子を追いかけるだろう。あなたは眼鏡の女の子が好きだし。僕は彼女の言うことを否定しない。ただ、少なくとも夏が来るまでは世界で一番君が好きだよ、そう言うだけだ。そう言った後で、一週間後には八月になることに気づく。そうして僕は彼女に殴られることになる。
 僕は後ろからそっと彼女のお腹に腕を回す。豊かなバストが僕の腕にのる。彼女が不運だったのは、とても素晴らしい胸を持っていたことだ。同性だって目を離せなくなるような豊満なバストだ。そのせいで、彼女は男性が信じられなくなった。男どもは皆、エベレストの登頂を目指す冒険家のように彼女の胸に迫り、挑みかかってきた。彼女からしてみれば、常に自分の胸を狙うコヨーテどもから身を守らなくてはならなかった。半分くらいユウコに分けてあげたい、と彼女は言った。ユウコは彼女の昔からの友達で、彼女の三分の一も胸がない。
 僕は昔、ユウコと付き合っていた。僕らはお互いのことがよくわからなかった。最初に好きだと言ったのは僕だったが、彼女はちょっと考えさせてと言ったきり半年答えを出さず、僕がそんなことはすっかり忘れて僕を好きになってくれた女の子と恋愛ごっこをしている時に、突然僕のことが好きだと言ってきた。僕はちょっと考えさせてくれ、と言った。僕のことを好きな女の子を好きになりかけていたのだ。悪い子じゃなかった。極端に自分に自信がなかっただけで。僕はやっぱり半年くらいユウコに返事をしなかった。その間に僕はその僕を好きになってくれた女の子と一ヶ月だけ付き合い、すぐに別れてしまった。初めてセックスした日にやっぱり僕はその子のことを好きではないことに気づいたのだ。それで僕はユウコに、いいよ、付き合おう、と言った。でも、その時、ユウコは別の男と付き合い始めていた。なんだかんだそんなことが何度か繰り返されて、結局僕とユウコが付き合い始めたのは最初に僕が告白してから三年後だった。彼女は恋人と別れたばかりで、僕はしっくりこない複数の相手とあてどない恋愛ごっこを続けているところだった。僕はユウコのことが好きだったし、ユウコは僕のことが好きだった。でも、お互い、付き合っても長くはもたないことを心のどこかで感じていた。結局最後まで僕らはお互いのことがわからないままだった。ヒカリを僕に紹介したのはユウコだ。その時、僕とユウコはまだ付き合っていた。でも、ヒカリに出逢った瞬間、僕は運命的な恋に落ちてしまった。それは理由も理屈もない、刹那的で悲劇的で宿命的な恋だ。
 僕はユウコを抱きながら、ヒカリのことを考えていた。あの豊満な胸を自分のものにできたらどんな気分だろう、と。結局、僕もコヨーテの中の一匹だった。僕が他のコヨーテと違っていたのは、太陽のように光り輝く運を握っていたことだ。ヒカリはボクシングファンだった。僕らはすぐに仲良くなった。彼女はユウコに遠慮していたが、僕がユウコと上手くいっていないことを相談にもちかけると、すぐに気を許した。ちょうどその頃、ユウコはユウコで、フィットネスジムで仲良くなった男とちょくちょく食事に出かけたりしていた。
 ある日、僕はユウコとヒカリの二人を食事に招待した。僕が見つけた美味いロブスターを出す店だ。僕はシャンパンとワインをしたたかに飲んで、ふらふらになっていた。飲みすぎたのは、ヒカリが胸の開いた素敵なドレスを着ていたせいだ。ユウコがトイレに行っている最中、僕はテーブルの下でヒカリの手を握り、もう片方の手で彼女の髪を撫でた。そしてそのままキスをするために彼女の顔を引き寄せた。ちょうどそこでユウコが帰ってきた。ユウコは僕らの様子を見ると、はあ、とため息をつき、それから椅子に座って、テーブルに頬杖をつきながら、いいわ、この人、あなたにあげる、とヒカリに言った。
 どうせ、ユウコも僕と別れる理由を探していたのだから、お互い様だ。ヒカリは女同士の友情のことを気にしたみたいだったが、ユウコはそれが傷つくことはないと明言した。
「むしろ、もっと仲良くなるんじゃない?この人の悪口で盛り上がれるし」
 その日の帰り、「いいわよ、あなたはヒカリと帰って」とユウコは言ったが、それはいくらなんでも道義に反する。僕はユウコを送るために同じタクシーに乗った。僕らは一言も喋らなかった。僕は心のどこかでまだユウコのことを愛していることを感じていた。ユウコがどう思っていたかはわからない。ユウコの家に着くと、じゃあ、さようなら、と彼女は言った。僕は、ああ、と言った。ばたんとタクシーのドアが閉まる。それで、僕とユウコの恋愛は終わった。

 僕はヒカリの胸に夢中になっていたが、それをあまり態度に出さないようにしていた。むしろ、あまり胸には興味がないというように。ヒカリの胸が大きかろうと小さかろうと、彼女を好きになった理由とは関係ないというように。しかし、もちろんそれは嘘だ。もしヒカリの胸が干潮の浜辺のように平らだったら、僕は決してヒカリを好きになっていない。それがコヨーテの世界の厳しい現実だ。
 最初は彼女も僕のふりを信じていたみたいだったが、次第に僕も薄汚い獣の一匹だと気づくようになった。付き合いが深くなるにつれ、僕の抑えきれない欲望が顔を出し始めたせいだ。所詮、いつかは露呈すると最初からわかっていた。ただ、ある程度、心を許せる仲になるまでインパラの仮面をかぶっていた方がいいと判断したまでだ。
 彼女はわざとぴったりしたブラウスや、胸の大きく開いたシャツを着て、僕を誘惑する。二週間ぶりに会った時などは頭がくらくらしてしまう。僕はそわそわし、居ても立ってもいられなくなる。早くそれを自分のものにしたい。でも、彼女は焦らすようにわざとゆっくりフォークを口に運び、ワインを飲む。僕らは例のロブスターの店にいた。今度は二人きりで。ようやく食事が終わって、コーヒーを飲み干すか飲み干さないかの内に彼女の部屋に行こうとすると、彼女は、これからユウコと約束があるの、と言う。僕の失望ぶりを楽しんでいるのだ。
「どうせ僕の悪口で盛り上がるんだろ?」
「そうね」
「あんまり彼女の言うことを真に受けないでくれよ」
「大丈夫。私達は真実を確かめ合うだけ」
「彼女、どうしてる?あのフィットネスジムの男とまだ付き合ってるのか?」
「別れたみたい。先月に」
「新しい男は?」
「クラブで知り合った男だって」
「やれやれ。何人目だよ」
「さあ。あなたを含めて十人目くらいじゃない?」
「なんでそんなにすぐに男を替えるんだろう」
「飽き性なのよ。すぐ刺激が欲しくなっちゃうの」
「僕も結局飽きられたし」
「でも、後にも先にも、相手の方から彼女を振ったのはあなただけらしいよ」
「振らさせたのは誰だよ」
「私」
「君は飽き性じゃないよね?」
「ううん、割と飽き性。物とかすぐに取り替えちゃうし」
「男は?」
「どうかな」
「フィットネスジムに通う予定はないよね?」
「ないけど、通った方がいいのかな。この胸も少しは小さくなるかもしれないし」
 そう言って、彼女は僕の前で胸を強調して見せる。ああ、もう、くらくらする。
 でも、僕は知っている。彼女が僕に惚れていることを。そうやって胸を武器に使うのも、僕に逃げられたくないからなのだ。彼女は僕が眼鏡の女の子に迫られていることを知っている。眼鏡の女の子は僕の後輩の妹だ。僕らはあるパーティで知り合った。彼女は僕より三つ年下で、その日の気分によっていくつかの眼鏡を付け替える。僕は昔からそういった役者的な女の子に弱い。初めて付き合った女の子もそんな子で、三ヶ月付き合った末にひどい振られ方をした。いつかそんな女の子をひどく振ってやろうという復讐心と、過去の傷を消したいというカタルシスへの願望から、僕は知らぬ間に眼鏡の女の子に引き寄せられてしまうのだ。
「いいよ。わかった。今日は誰かを誘って飲みに行くよ」と僕は言う。
「誰かって誰?」
「誰かだよ」
「だから誰よ」
「わからないよ。まだ決めてない」
「女の子?」
「女の子かもしれないし、男かもしれない」
「眼鏡の子と行くんでしょ」
「まだ決めてないよ」
「嘘。私がいなくなったら、すぐに眼鏡の子に電話するんでしょ」
 僕はするともしないとも言わない。黙ってコーヒーの最後の一口をすする。それから、何時からの約束なの?と訊く。
「飽き性なのはどっちよ」
「僕は飽き性じゃないよ」
「嘘。ユウコに飽きたら私で、私に飽きたら眼鏡の子」
「僕が君に飽きてると思う?」
「飽きてるじゃない。別の子と飲みに行くなんて」
「僕はただ、誰かと飲みに行くって言っただけだよ。女の子と行くなんて言ってない」
 彼女は俯いてコーヒーを飲む。それはまだ三口残っている。
「もう、いい。勝手にすれば。こっちだって勝手にするから」
 本当は彼女にこの後予定なんてないことを僕は初めから知っていた。そもそも僕と会う日に他の予定を入れるほど彼女は無神経ではないのだ。彼女は見えないところでとても気配りをする。強がって無頓着なふりをするが、本当は僕のことを一番に気遣ってくれる。僕がいつも心地良い時間を過ごせるように。そして、自分が僕を愛しているほどに、僕が自分を愛していないと感じて、不満と不安を抱えている。彼女は僕をさんざん落胆させた後で、こう言いたかったのだ。あなたがどうしても私と一緒にいたいって言うのなら、ユウコに悪いけどクラブには一人で行って、って言ってあげる、と。僕は僕で、彼女に身も心も溺れてしまっていることを悟られたくない。そういった恋は必ずや一時的なもので、いつかは消え去ってしまうものだからだ。でも、だからこそ、僕はますます彼女を求めてしまう。そして彼女と会う度、心の底からこう願う。この恋がいつまでも続くように、と。
「そろそろ時間だろ?待ち合わせ場所まで送って行くよ」
「いい。一人で行けるから」
「少しでも長く君と一緒にいたいんだよ」
「嘘。早くいなくなれって思ってるくせに」
 ようやく彼女のコーヒーがなくなる。二人は店を出て、歩き始める。
「どっち?」
「一人で行けるから」
「手を繋いでいい?」
「嫌」
「本当に行くの?」
「行く」
「わかった」
「あなたも早く飲みに行けば?」
「いや、行かないよ。君の部屋で君の枕を抱きながら君の帰りを待ってる」
「やめて。気持ち悪いから」
「じゃあ、枕は抱かない。キッチンの掃除でもしてるよ」
「キッチンは昨日掃除した」
「じゃあ、手紙を書いて待ってる」
「手紙?どんな話?」
「それは秘密」
「嫌な話?」
「さあね」
「そんな風にされたら気になってゆっくりできないじゃない」
「気にしないで楽しんできて。ユウコと一緒にクラブで騒ぐんだろ?」
「クラブなんて行かない」
「どこでもいいさ」
「ああ、もう、なによ。何が言いたいの?別れ話?別れ話がしたいの?私にはもう飽きたって?いいわよ。眼鏡の子のところに行けば?もうついてこないで」
 彼女は嫌悪と失望の入り交じった顔で僕を睨む。今にも泣きそうな瞳だ。僕はできるだけ優しい微笑みを浮かべてこう言う。
「違うよ。君に書くんじゃない。ユウコにさ。彼女、今、夏休みでフィリピンの伯父さんのところに行ってるんだ。知らなかったの?手紙を送ってきたんだよ。ヒカリと一緒にあなたも遊びに来たら、って。その返事さ。来年は是非、ってね」
 彼女は顔を真っ赤にさせると、僕の胸を思いきり殴ってきた。僕は甘んじてそれを受けた。
「嫌い。あなたなんて、大嫌い」
 彼女は何度も僕の胸を叩く。いくら女の拳だって、まともに当たれば痛い。彼女は大きく拳を振りかぶる。拳は左から僕の顔を目がけて飛んでくる。僕はダッキングでそれをよけると、脇から背後に回って彼女を優しく抱きしめる。彼女は最初はもがいてみせるが、僕が彼女の首筋に顔を埋めると、おとなしくなって僕の腕をぎゅっと掴む。僕は彼女の匂いを胸の奥まで吸い込む。腕の上に彼女の豊満で柔らかな胸の重みを感じる。なんて素敵な感触なんだろう。今すぐこれを自分のものにできるのなら、もう一度リングに上がったっていい。

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