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【掌編小説】ナツとエリ

 午後五時。
 空の裂け目から赤い血が滴っているように太陽の光が落ちていた。
 二人は車に乗って、全てが行き止まりに似た街角を走らせていた。
「今日はどこに行く?」とナツは車の中で若い恋人に訊く。
「ホテル」とエリは答える。
「最初から?」
「うん」
「何か嫌なことでもあった?」 とナツはハンドルを回しながら訊く。
「ううん」
「彼氏と喧嘩した?」
「ううん」
「じゃあ、どうして?」
「…ねえ、早く行こう」
 ホテルの部屋に入ると、ナツはエリの体を抱きしめる。わざときつく。エリは苦しそうにナツの腕の中でもがいてみせる。彼女がナツの手を取って自分のスカートの中に触れさせると、そこはもうすごく濡れている。
「朝からこんななの」と彼女は恥ずかしそうに言う。「このことばっかり考えてたの」
 ナツはベッドで彼女の下着を脱がし、焦らすように愛撫する。エリは体を震わせながら切なそうな顔でナツを見つめる。「もうだめ、欲しい」
「もう?」
「うん。早く入れて」
「まだ、だめ」
「お願い」と彼の股間に手を伸ばす。「欲しい」
 ナツはバスルームからタオルを持って来て、彼女の両手を縛る。「朝から犯されたかったんだね?」と彼女を見下ろしながら言う。
「うん」
「どんなこと想像してたの?」
「…やだ。言えない」
「いいから、教えて」
「…キスされて、ベッドに押し倒されて…」
「うん。それから?」
「抑えつけられて、ひどいこと言われながら、犯されるの」
「どんなこと?」
「…ひどいこと」
「それって、こんなこと?」ナツはそう言うと、彼女の耳元に口を近づけてこう囁いた。「犯して、って言えよ。雌犬」
 エリは潤んだ瞳でじっとナツを見つめた。そして、「犯して」と呟いた。

 その後、二人は車に乗って、海に向かった。エリが海に行きたいと言った。
「今日、すごく気持ち良かった」とエリは囁くように言った。
「それはよかった」
「彼氏とするよりも、ナツとした方が十倍くらい気持ちいい」
「そう?」
「うん。なんでかな」
「きっと、余計な気持ちがないからだよ」
「…私、ナツのこと、好きだよ」
「俺も、エリのこと、好きだよ」
「いいよ、嘘つかなくても」
「嘘じゃないよ」とナツは言った。
「時々、怖くなるの。彼氏に会いたくなる時よりも、ナツに会いたくなる時の方がずっと多くなってるような気がして」
「気のせいだよ」
「ううん、気のせいじゃない」
 雨のように夜が降っていた。前の車のテールランプが赤く光った。
「ナツに会うとね、会うと思っただけで、濡れちゃうの。私、昨日の夜も今日のこと考えて一人でしちゃった。おかしいの。ナツ、好きよ。大好き。ナツの肌の匂いや髪の柔らかさや、瞳の色や、長い指も小さなおしりもみんな好き」
「ありがとう。でも、大事なところが抜けてるんじゃない?」
 彼女は楽しそうに笑って、「もちろん、そこも大好き」
 信号が青に変わった。ナツはハンドルを握って、真っ直ぐ道の向こうを見た。海が見えた。海沿いを走る。ナツが煙草を吸おうとすると、エリは箱を取って、彼の口と自分の口に差し込んで火をつけた。
「かもめがいるね」とエリは空を見て言った。
「うん、かもめがいる」
「かもめは孤独な鳥なんだって」
「ふうん」
「あれは何?」とエリは窓の外を指差して言った。
「あれは岬だ」ちらっとその方角を見て、ナツは応えた。
「あれは?」
「灯台」
 エリはフロントガラス越しに見えるその灯台と火のついた煙草を並べて眺めた。
「ねえ、ナツ。もし私が奥さんと別れて私と結婚して、って言ったら、どうする?」
「君に言われなくても、僕らはもうじき別れるんだ」
「そう」とエリは呟くように言った。「本当は別れたくないの?」
「いや」とナツは言って、煙を吐いた。「でも、別れなくてもすむようにもうちょっと努力できたんじゃないかって」
「やっぱり別れたくないんだ」
「違うよ。すぐに諦めて投げ出しちゃった自分が嫌なだけだよ」
 エリはしばらく黙って、じっと窓の外を眺めていた。墜落した星のような明かりが、海の向こうの島にぽつぽつと灯っていた。
「私もそのうち、そんな風に捨てられるのかな」と彼女は独り言のように呟いた。
「そんなこと考えなくていいよ」とナツは言った。
「ねえ、ナツは今まで何人くらいの女の子と付き合ったの?」
 ナツは頭の中で数えて、それよりも半分少ない数字を言った。「五人」
「私は六人」とエリは言った。「でも、ナツより全然わかってない気がする。恋愛のことも、セックスのことも。ナツといると自分がすごく子供に感じるの」
「年が離れてるからだよ」
「そうだけど。でも、なんて自分は子供なんだろうって思うの。私、今まで気づかなかったけど、色んな人を傷つけてきた」
「それを知っていれば、十分大人だよ」
「でも、わかってても、ナツと一緒にいたいの。ナツのことで頭がいっぱいなの」
 ナツはしばらく黙って、煙草を吸いながら車を走らせた。ちらっと彼女を見ると、泣きそうな顔をしているので、左手で頭を撫でてあげた。エリは頭をすり寄せた。
「ごめんね」とエリが言った。
「何が?」
「ナツを困らせてる」
「可愛い女の子に困らせられるのはいつでも大歓迎だよ」
 彼女は嬉しそうに笑って、ナツの肩に頬をすりつけた。
 やがて車は岬の先に着いた。
 二人はそこで車を停めて、外に出て海を眺めた。
 真っ黒な水平線が、人の惨めさと愚かさと孤独を嘲笑っているかのようにうねっていた。灯台の明かりが、そこにすっと吸い込まれていた。
「次はどこに行く?」とナツは若い恋人に訊いた。

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