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【掌編小説】待ち合わせは十九時

 待ち合わせは十九時だった。僕は待ち合わせ時間に五分遅れた。店内を見渡す。アヤは先に来ていた。後姿でわかる。肩下まである髪を巻いて、一つに束ねていた。僕は席に着くと、出る時は雨なんて降ってなかったのに、と言い訳をした。アヤは、こっちは夕方から降ってたよ、と非難の目つきで僕を睨んだ。僕はスーツの肩についた雨粒を払った。
「それが遅れた理由?」
「駅で傘を買うべきかどうか、迷ったんだ」
「結局、買わなかったのね」
「ああ、走った」と僕は言った。「それに、君が時間通りに来るとは思わなかったし」
「私はいつも時間通りに来てるでしょ」
「いつも五分くらい遅れるだろ」
「今日は雨が降ってたから、少し早めに出たの。早く出て損した」
 僕はウェイターを呼んで、ビールを頼んだ。それから、ミックスナッツ。トルティーヤチップス。その日、彼女は眼鏡をしていた。赤いフレームの眼鏡。眼鏡の彼女は初めてだった。
「どうしたの?」と僕は言った。
「何が?」
「眼鏡」
「時々してる」
「目、悪いの?」
「悪い。外すとあなたの顔がよく見えないくらい」
「いつもしてなかった。僕と会う時は」
「そう?」
「そんなに悪いんじゃ、危なくない?」
「見えなくてもなんとく雰囲気はわかるけどね。あ、笑ってるな、とか、あ、怒ってるな、とか、あ、私の話、聞いてないな、とか」
「まあ、細かいところは見えない方がいいってこともある」
「そう。よく見えたってどうせ嫌なことばかりだもの」
 僕らはビールを飲んだ。美味いビールだった。ステム付の大きなグラスに入っていて、琥珀色に輝いていた。泡がぴったりグラスの縁まで盛り上がっている。僕は二口に分けてそれを半分くらいまで飲んだ。それからミックスナッツを口に放り込んだ。喉が渇いていた。もう一口ビールを飲む。僕は働いて金を稼いでいた。金を稼ぐためだけの仕事だ。何の意味もない。時間をすり減らし、魂をすり潰し、世界を邪悪に染める。もうビールはほとんど飲み切ってしまった。鼻から大きく息を吐いた。アヤを見た。ビールは半分くらい減っていた。僕はウェイターを呼んで、別のビールを頼んだ。そしてそれが来るまでナッツをつまんだ。彼女はナッツを食べずにトルティーヤチップスを一つだけ食べた。彼女はまだ眼鏡をしていた。
「外したら?」
「何を?」
「眼鏡」
「なんで?」
「なんとなく」
 彼女は眼鏡越しに僕を見た。
「あなたってこうしてみると、意外に老けてるのね」
「老けてない」
「いくつ?」
「まだ三十五だ」
「おじさん」
「おじさんじゃない」
「じゃあ、何さんよ」
「ユウヤさんだ」
「それはただの名前じゃない」
「ユウヤさん、って言ってごらん」
「おじさん」
「じゃあ、君は何さんだよ」
「私はまだ二十四だし」
「だからなんだよ」
「おじさんと違って、若いし」
「ちょっとその眼鏡貸してみな?」
「嫌」
「二十四歳の君をよく見てあげるから」
「絶対、嫌」
「いいから、ほら」
「おじさんのあぶらとかがつきそうだから、嫌」
 新しいビールが来た。そのビールも美味いビールだった。僕は二口飲んで、間を空けずにもう一口飲んだ。それからナッツを口に放り込んだ。ナッツの世界に罪はない。ナッツは平和だ。ちょっとぐらいいざこざがあったとしても、ナッツ的世界では誰も仲間外れになったりはしない。ピスタチオはアーモンドに恋をしていて、くるみはマカダミアが好きだ。アーモンドはくるみのことが自分とはあまり合わないと思っているけれど、喧嘩したりはしない。くるみが楽しそうにしていると、自分からそっと離れる。カシューナッツはとっつきづらい奴で、時々独善的な演説をぶったりするけれど、みんなはそれを黙って受け入れている。一度、マカダミアがアーモンドにちょっかいを出した時には不穏な空気が流れた。ピスタチオもさすがに口を膨らませて、静かに抗議の姿勢を見せた。マカダミアも本気ではなかった。ちょっとふざけてみただけだ。マカダミアは、アーモンドにピスタチオのことを褒めてみせて、身を引いた。それで元の鞘におさまった。ナッツ的世界の秩序は崩れない。みんながナッツ的世界を愛している。そして何より、ナッツ的世界ではみんなが永遠に若い。
「なんでそんなに幸せそうな顔してるの?」と彼女が言う。
「美味いなと思って」
「そんなにナッツが好き?」
「まあ、好きだね。平和の象徴さ」
「ナッツが平和の象徴ってどういう意味よ」
「色んなやつが交じっていても戦争なんて起こらない、ってことさ」
「ただのナッツだからでしょ」
「一つ食べてみなよ」
「太るから、嫌。ナッツってカロリー高いし」
「ほら」
「嫌だって」
「口開けて」
「何それ、二つじゃない」
 しぶしぶ開けた彼女の口に、僕はアーモンドとくるみを放り込んだ。実はこの二つの組み合わせだって十分合うのだ。僕は彼女の口がもぐもぐと動くのをじっと眺めた。そしてビールを飲んだ。彼女もビールを飲んだ。ようやく最初の一杯がなくなりそうだ。僕は彼女のためにメニューを開いてあげた。テキーラ・サンライズ、と彼女は言った。僕はウェイターにテキーラ・サンライズとソーセージの盛り合わせを頼んだ。それに、ビール。
「タコスも食べたい」と彼女が口を挟んだ。
「じゃあ、タコスを二つ」と僕はウェイターに言った。
「あんまり辛くないやつ」と彼女が言った。
「あんまり辛くないやつ」と僕はウェイターに向かって繰り返した。
「ビールばかり飲んでると太るよ」とウェイターが去った後で彼女が言った。
「昔から太らない体質なんだ」と僕は言った。「誰かと違って」
「私も昔から太らない体質なの」と彼女は言った。「誰かと違って」
「ちょっと眼鏡、貸してみな?」
「嫌って言ってるでしょ」
「顎の周りの肉とかよく見てあげる」
「絶対、嫌」
 テキーラ・サンライズとビールが来た。それから、少し遅れてタコスが。タコスは全然辛くなかったので、僕はタバスコを持って来てもらわなければならなかった。タコスにタバスコをふんだんにかける僕を見て、彼女は、悪徳の象徴ね、と言った。悪徳があるから美徳がある、と僕は応えた。
「悪徳も美徳もみんななくなればいいのに」と彼女は言った。綺麗なオレンジ色の液体の入ったグラスに目を落としながら。

 いつの間にか、アヤの飲み物はテキーラのロックに変わっていて、それが三杯目になった時、彼女は眼鏡をテーブルの脇に放り投げていた。くだらないものがみんな見えなくなるように、と彼女は言った。
「顎の周りの贅肉とか、平和の象徴たるナッツとか、三十五歳とか、二十四歳だとか、生理不順も、貧血も、くそったれな上司も、あなたの鼻のあぶらも、悪徳まみれのタバスコも、ビールの泡も、何もかも」
 僕は手を伸ばして、その眼鏡を取った。それから、その眼鏡越しに彼女を覗いてみた。彼女は美しかった。彼女自身が思っているより、ずっと。
 ずっと。ずっと。ずっと。
 僕は眼鏡を放り出した。彼女は酔いにまどろんだ瞳で僕をじっと見ていた。僕は彼女のグラスを取った。それから、乾杯と言って喉に流し込んだ。

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