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【掌編小説】二人の関係

 もう三日も降ったりやんだりの小雨日和が続いていて、僕は窓から外の様子を眺めて首を傾げた。一週間前の予報では、この連休は晴れ続きのはずだった。まだ降ってるよ、と僕は言った。そう、とミユリは言った。「よく降るね」
「ああ、よく降る」と僕は言った。
「晴れのはずじゃなかった?」
「うん、晴れのはずだった」
「変わったの?」
「変わったみたいだ」
「どうして?」
「わからない」
「台風?」
「台風じゃない」
「なんとか前線?」
「なんとか前線でもない」
「ただ、降ってるの?」
「そう、ただ降ってるんだ」
 彼女はベッドの上で伸ばした剥き出しの白い脚を組み替えた。開いている本の上側からちらっと僕を覗いて言った。「セックスでもする?」
「朝したばかりだろ」
「またしたくなったかと思って」
「したいかと言われれば、したくなくはない」
「なくなくなくない?」
「なくなくなくなくなくなくない」
「じゃあ、パンツ、脱がせてよ」
 僕はベッドに上がって、彼女の短パンの端に両手をかけた。短パンの下はシンプルな白の下着だった。僕はそこに顔を埋めて匂いを嗅いだ。
「嫌がった方がいい?」と彼女が本から目を離さずに言った。「ヨウちゃん、そういうの好きでしょ?」
「どんな風に?」と僕は訊いた。
「いや、やめて。そんな気分じゃないの」と彼女は演技をする。
「いいじゃん。やらせてよ」
「やだ。今、本読んでるの」
「ちょっとだけだから」
「やだ。今、いいところなんだから」
「じゃあ、読んでてもいいよ」僕は彼女の股間に顔を埋めたまま言った。彼女の体は何回嗅いでもいい匂いがする。僕は彼女のパンツを下ろして(彼女はちょっと腰を浮かせてくれた)、直に彼女の体に唇をつけた。
「ちょっと、やめてって」
「やだ。やめない」
「もう、本当にやめて」
「本、読んでればいいだろ」
「集中して読めない。ちょっと、ねえ、やめて」
 結局、彼女は脇に本を放り出して、僕らはキスをしながら抱き合った。朝したばかりだったが、それは最高のひと時だった。

「何、読んでるの?」と僕は裸で彼女の隣に横になったまま、彼女の綺麗な髪に触れて言った。彼女は僕に本の表紙を見せた。
「死に至る病、キェルケゴール、なにそれ」と僕は言った。「なんの人?」
「どこかの哲学者」と彼女は応えた。
「昔の人?」
「昔の人。どれくらい昔かは知らないけど」
「なんでそんなの読んでるの?」
「家にあった」と彼女は言った。「お父さんの本棚」
「お父さん、学者か何かなの?」
「ううん。普通の会社員。IT系」
「IT系の人って、そんなの読むの?」
「読まないと思う」
「ちょっと変わった人なのかな」
「ううん、別に普通の人」
「普通の人は、そんなの読まないと思うよ」
「そうかな」
「そうだよ」と僕は彼女の髪に手櫛を通しながら言った。「で、君はなんでそんなの読んでるの?」
「別に理由なんかないよ。目にとまったから」
「死に至る病が?」
「そう、死に至る病が」
「何なの?死に至る病って。結核とか?ペストとか?」
「絶望」
「ああ、そういう精神的な話なんだね」
「そう」
「で、その絶望から逃れるにはどうしたらいいの?」
「神を信じなさい」
「それだけ?」
「難しくてよくわからないけど、結局そういうことみたい」
「ふうん」と僕は唸った。「面白い?」
「冒頭、読んであげるね」と彼女は最初の方のページを繰って言った。
「人間とは精神である。精神とは何であるか?精神とは自己である。自己とは何であるか?自己とは自己自身に関係するところの関係である、すなわち関係ということには関係が自己自身に関係するものなることが含まれている、それで自己とは単なる関係ではなしに、関係が自己自身に関係するというそのことである」
「さっぱりわからないな」と僕は言った。「関係が関係と関係する?」
「自分自身っていうのは、自分と関係する、というその作用のことだけど、その関係している自分も変化しながら自分と関係しているわけで、つまり関係の二重ループになってる、っていうことなんだと思う」
 僕は彼女の髪をいじっていた指を止めて、感心して言った。「すごいな。君がそんなに頭がいいとは知らなかった」
「セックスのことしか頭にない女だと思ってた?」
 僕は首を振って言った。「驚いたよ」
「あなたと私の関係は単なる関係ではなしに、その関係がお互いの関係に関係し合ってるの」
「僕と君との関係は、ただの関係ではなく、お互いの関係に関係が関係し合ってる」
「私との関係に関係するのは好き?」と彼女は僕を横目で見ながら言った。彼女の瞳を見ていると、関係が関係と関係し合って、関係同士が新しい関係を生むのを感じた。僕は再び彼女の髪を手にとって、その匂いを嗅いだ。それから、「君との関係にもう一度思う存分関係したい」
 彼女は僕との関係にまた新しく関係するように微笑みながら、いいよ、と僕の耳元でささやくように言った。

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