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【掌編小説】永遠の指

 ユカは僕の指を舐めるのが好きだ。
 僕はソファに座ってドストエフスキーの『永遠の夫』を読んでいる。ページをめくりづらいからやめろよ、と言う。今、ドストエフスキーの性癖に没頭しているところなんだから。彼女は僕の左手のくすり指を丹念に舐めていた。この指が一番美味しい、と言った。やめてほしい。ふやけるし、くさくなる。ページをめくる。初めてリーザが出てくるところだ。僕は十年以上前にこの小説を読んだことがあるが、すっかり内容は忘れてしまっていた。いや、二十年前か。二十年前、僕は学生で、勉強は全くせず、本と音楽に包まれて生きていた。今は、こうして恋人とも友達ともつかない、何と言っていいかわからない関係の、二十歳も年下の女の子に指を舐められながら本を読んでいる。二十年前だったら、直ちに欲求を満たして、夜まで眠りこけてしまうところだろう。でも、今はこうしてなんでもないことのようにじっと我慢できる。僕が二十年間で得たことと言えば、こんなことくらいだ。
 彼女はくすり指に飽きると、小指に移動した。すっぽり口に含んで、口の中で舌でもてあそんだ。僕は無視したふりで本から目を離さなかった。本に集中しているというように。いつの間にか、喉が渇いていることに気づいた。本を膝に置いて、右手でテーブルの上の紅茶のカップを取って飲んだ。彼女はその間も小指から口を離さなかった。
 十分母乳を与えられなかったせいなのだろうか。僕は彼女の家庭環境なんて知らない。ただ、なんとなく、幸せな子供時代を過ごしてきてないんだろうな、と感じるところはあった。僕はもう、本を読んでいなかった。ただぼんやり文字を見つめていただけだ。彼女は小指を舐めつくすと、ふうとため息をついて、僕の手の甲に鼻をつけて匂いを嗅いだ。それから、僕の横顔を見つめると、もう一本、一番太いのを舐めちゃおうかな、と言った。
「今、本を読んでるんだ」と僕はかすれた声で言った。
「嘘。もう読んでないくせに」
「読んでるよ」
「じゃあ、いいよ、読んでて」
 彼女は僕の脚の間に座ると、ズボンのボタンを外し、前を開けた。それからパンツをずらして、横から僕の性器を出した。性器は凶暴な鉄パイプみたいに硬くなっていた。
 彼女は両手でそれを優しく撫でると、下の方から上の方に向かって舌を這わせた。僕はページをめくった。もちろん全く読んでいなかった。ずいぶん硬くなってるね、と彼女が言った。僕は応えなかった。
 彼女はそれを口に咥えて、丹念に舐め始めた。窓ガラスについた時間の雫を舐めとるように。僕がこの二十年で学んだもう一つのことは、すぐに射精してしまわないということだ。僕はまだ本を開いて頑張っていた。可哀想なリーザ。僕が助けてあげられたらいいのに。ページの向こうから、卑猥な音と、鼻息が聞こえてくる。ああ、おいしい、ずっと舐めれちゃう、とユカが言う。ごめんよ、リーザ。もう限界だ。僕は諦めて、本に栞を挟んで横に置き、目を閉じた。
「どうしたの?本、読まなくていいの?」
「ちょっと目が疲れたんだ」
「目薬、取ってきてあげようか?」
「いや、いいよ」
 彼女は深く咥えて口を動かし始めた。僕は目を閉じたまま、瞼の裏側に浮かぶ無数の星の数を数えていた。その一つ一つに別の自分が生きているかのように。二十年の歳月が消し飛びそうだった。僕はすぐに射精してしまったあの頃に戻って、激情に呑み込まれそうになった。彼女もそれを感じて、唇をゆっくりと離した。入れたくなってきちゃった、と言った。それからスカートの中に手を突っ込んで、自分の股を触った。すごい濡れてる、と言った。パンツまでびしょびしょ。彼女は立ってパンツを脱ぐと、それを僕に見せた。
「ほら。こんなに」
 そのまま彼女はソファに座った僕に跨って乗ろうとした。
「ちょっと待って。今そんなのに入れたら、すぐに出ちゃうよ」
「いいよ」
「ゴムは?」
「大丈夫」
「大丈夫じゃない」
「大丈夫。もしできちゃったら、一人で生んで育てるから」
「そんなの、だめだよ」
「いいの。私みたいな可哀想な子を育ててあげるの」
 口元が引きつっていて、目だけが少し笑っている。元々色白の彼女の肌が、ますます青ざめていくように見えた。星を一つずつ潰していく悪魔のように。腹の奥が変な音を立てた。僕は彼女に抱きつくと、そのまま体をよじって彼女をソファに押し倒した。僕は上から彼女の手を抑えた。彼女は下からじっと僕を見ていた。
「どうして?」
「どうして、じゃないよ」
「私が子供を生んじゃだめなの?」
「生んでいいのは、俺の子供じゃない」
「なんで?」
「ちゃんと結婚して、好きな人の子供を生むんだ」
「結婚なんて、できない」
「できるよ」
「できない。私に結婚なんてできない」
 彼女が可哀想なリーザのように思えてきた。僕は、大丈夫だよ、と言って、彼女の頬を撫でた。
「できるよ」
「じゃあ、結婚して」
「え?」
「私と結婚してよ」
「本気?」
「本気」
「好きな人と結婚しろって言っただろ?」
「私のこと、好きじゃないの?」
「君だって、俺のこと好きじゃないだろ?」
「好きじゃない人とこんなことすると思ってるの?」
 僕は彼女の目を見つめながら、どう切り抜けようか考えた。彼女が本気ではないことはわかっていた。ただ、下手をすると、面倒くさいことになるのは間違いない。僕は、もう一つ、この二十年で学んだことがあることを思い出した。
「そっか。ごめん」
 それだけ言って、僕は黙った。女性とは議論しない。そういうことだ。それからぎゅっと彼女を抱きしめた。暑かったが、我慢して抱いた。彼女が、暑い、と言うのを待った。彼女もすぐには暑いと言わなかった。どうするのがいいのか考えていたのだ。答えはなかなか出なかった。僕は彼女の匂いを嗅いだ。なんだかいつもと違う匂いがした。僕は彼女を抱きしめ続けた。
「暑い」とうとう彼女が言った。「離して」
「嫌だ」
「ゴム、取ってくるから」
 僕が彼女を離すと、彼女はクローゼットの棚からゴムの箱を取り出し、テーブルに放り投げた。
「その代り、五回はやってよね」
「子種が尽きちゃいそうだ」
「子供を生めない体にしてあげる」
 そう言うと、ユカはもう一度僕の指を舐め始めた。

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