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【息ぬき音楽エッセイvol.7】「スポークン・ワード」とお経 by 村松社長

みなさまこんにちは。カロワークスの村松社長です。
前回、繁忙期だ!繁忙期だ!と騒いですっかり忘れていたのですが、弊社がnoteを始めたのが今年4月なので、前回がちょうど半年の記念すべき月でございました。遅ればせながら、半年間お付き合いいただきありがとうございます。
6ヶ月で、やっとnoteの雰囲気や「感じ」がつかめてきたような気がしていますが、ほかのSNSや普通のブログと比べて、少し独特な空気がありますね。実際は文章を書いているのに、どちらかというと話しかけているような感じ。しかもちょっと大きな独り言を、なんとなく聞いてもらっているような…。
今回はそんなnoteのイメージにも通じる、話し言葉と音楽についてのお話です。

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あまり人には言っておりませんが、社長には長らく密かに興味を持っているひとつのジャンルがあります。
それは朗読、正確に言うと「スポークン・ワード(spoken words)」というもの。「ちょっとなに言ってんのかわかんない」という方のために、まずは最近のおすすめを実際にお聴きください。

↑イギリスのミュージシャン・詩人・小説家・戯曲家であるケイト・テンペストさんの作品(2019年)

↑イギリス出身の小鳥を愛する詩人ウィル・バーンズさんと、北アイルランド出身の作曲家ハンナ・ピールさんのコラボ作品(2019年)

↑スウェーデンの音楽家ハッシュ・フォーエヴァー(Sebastian Liljaさん)と、DJのクリス・ココさんのコラボ作品(2018年)

「スポークン・ワード」とは、”詩の朗読”である「ポエトリー・リーディング」を含めた、言葉を話すという芸術の一分野を指します。日本語でいうと「話芸」になるでしょうか。
上でご紹介したのは3つとも音楽の演奏が入ったものでしたが、演奏が入っていないスピーチやコメディ、説教などが記録されたものもこれに含まれます。

アメリカでは「スポークン・ワード」というジャンルの成立が早く、ちゃんと芸術文化として受け入れられています。
理由のひとつに、識字率の低かった19世紀の西部開拓時代、酒場での牧師の”説教”が重要なエンターテイメントとして定着し、「書く」ことよりも「話す」ことに重点が置かれたカルチャーが広がった、ということがあるようです。

日本では、明治時代の言文一致運動で「話す」ことから「書く」ことに重きを置くことによって言語文化の近代化が進んだ、という歴史があるためか、スポークン・ワードはあまり一般化していませんね。
その証拠に、Wikipedia日本語版「スポークン・ワード」のページをご覧ください…。

1990年代のスポークン・ワード史
(中略)1990年代後半になっても、スポークン・ワードは死に至ってはいない。またしてもメインストリームの水面下で息をひそめているのである。

これは90年代後半から完全に放置されているとしか…。
しかも「死に至っていない」けど「水面下」で瀕死ってこと…⁈
隠れスポークン・ワードファンである社長は独り言の声を大にして言います。2020年現在もスポークン・ワードは元気一杯生きているし、これからはむしろスポークン・ワードの時代だ!

さてちょっと興奮してしまいましたが、なぜこんなにスポークン・ワードに興味があるかというと、この中に一番根源的で深い問いが含まれているからです。
先ほどのWikipediaで、「ラップとスポークン・ワードの境界線はどこにあるのか」という一文があるのですが、私の中にはもっと広い、「”話す言葉”と”音楽”との境界線はどこにあるのか?」という、超特大の興味関心があるのです。

これは本当に「一番」と言っていい興味関心なので、また今後もこのエッセイで取り上げると思うのですが、この関心が生まれた背景には1枚のCDがありまして。
2007年にDust to Digitalからリリースされた『Black Mirror: Reflections in Global Musics』というアルバム。

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1918年から1955年に録音されたSPレコードをデジタル化したもので、トルコのガゼル、ベトナムのダン・バウ、フラメンコ、ファド、シリア正教の音楽など、世界各地の音源が収録されています。
公式bandcampで全曲試聴できるのでぜひ聴いてみてください。

悲しいことに視聴できなくなっておりました…(2021年3月追記)。
代わりにユニオンの商品ページ貼っておきますね。
https://diskunion.net/avant/ct/detail/AGY130405-04

20曲目に、タイのナコーン・パノムで録音されたお経の音源が入っているのですが、超特大興味関心の原因はこれです、これ。
はじめは普通に読経の声なので「あー、はいはい、お経ね」と思いながら聴いていると、1分30秒くらいのところで突然「歌」のようになります。
それまで音楽に聴こえなかったものが、少しメロディのようなものが入った途端に「歌」になり、音楽になる。
その「メロディのようなもの」も主観的なもので、実は話し言葉は最初から音楽なのではないか?という大きな問いに晒されたわけです。

この【息ぬき音楽エッセイ】は「音楽と、音楽ではないなにか」をつなげてお話しするというコンセプトでやってきたのですが、今回はスポークン・ワードもお経も、音楽と音楽でないものの間にあるなにか、ということになります。

残念ながらタイの言葉は全くわからず、英語のリスニング力もあまりよろしくないので、私にはなおさらスポークン・ワードやタイのお経が音楽に近く聴こえるのかもしれません。これが母国語だったらどんなふうに感じるのでしょうか?興味は尽きませんが、次の機会に取っておこうと思います。
それではまた次回!

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