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小説「人間革命2巻」④~前哨戦~

 人間革命2巻の「前哨戦」では、戸田に薫陶を受けた創価学会青年部が、ある教団に乗り込み、破邪顕正の言論を示してくる。仏法の偉大さ、生命哲理を知った青年たちの人びとを救いたいとの思いからの発露である。しかし、一方で、その傲慢さを戸田に一喝される。ここでは、邪義を放つ相手に対して、どのように接していくべきなのか、すなわち創価学会における折伏行とはどういうことなのかが、はっきりと分かる章である。

一九四六年(昭和二十一年)ごろから、教団は、またも活発に活動し始めていたのである。(中略)真実の生命の法則を歪めた、継ぎはぎだらけの教義は、信じた人びとを不幸に陥れる働きをするものである(中略)青年たちの正義感は、それを許さなかった。

人間革命2巻「前哨戦」p.176

 1946年ごろは、日本において戦後まもなくであり、多くの宗教団体が建立してきた。本書にもあるが宗教の戦国時代と呼べるであろう。本来の宗教の行きつくべき、最終目標地点は、「人々の幸福」であることは間違えない。しかし、邪義を構えながら、人びとを不幸に陥れる教団もあった。その正邪が、わかっている青年たちからすれば、黙っていられないのは、彼らの若さゆえの正義感とも言えるだろう。

 既成主教であれ、新宗教であれ、宗教といえば、すぐに迷信同様のものとみなす人がいる。確かに、迷信じみた教えを説く教団が、数多く存在することは事実である。しかし、宗教のすべてが、不合理で迷信的な教義を説いていると考えるのは、あまりにも無認識な評価といわなければならない。世界宗教といわれるものは、普遍的な理念をもち、人類の未来を照らそうとする崇高な理想を説き、そして、それを実現するための使命感を訴えている。

人間革命2巻「前哨戦」p.181

「迷信じみた教えを説く教団」と「世界宗教」の特徴が明確に示されている。この記述を照らし合わせた時、創価学会は「世界宗教」に値する。

十把一絡げに、”宗教は迷信である”と人びとに思わせた責任は、もっぱら迷信的な”ご利益信心””祟り信仰”などを宣伝した、新宗教の教祖となどの宗教屋にある。さらに、戦後、社会に大きな影響を与えていった社会主義的思想のリーダーたちが、宗教を非科学的なものとして否定したことも、人びとに誤った宗教観を植え付けていく結果になった。

人間革命2巻「前哨戦」p.181

 私自身、一時期、他の新興宗教の方と付き合う時期があった。その中で、驚いたのは、「創価学会は御利益信仰である」と言われたことだ。確かに功徳を得ていくことは創価学会の考えとしては強い。一方で、自身が幸せになることで他者も救っていこうとも考えもある。そして、その草の根の広がりが世界の平和につながっていくと考える。単なる自己中心的、迷信的な御利益ではないのである。
 しかしながら、社会主義が広がり始める中で、宗教は科学に相反するものに当たり、非科学的なものとしての認識が強くなる。そして、それは現在においても変わらず広がっていることを、今改めて認識しなければならないとも思った。

戸田は、人間の力に大差がないことを知っていた。非凡であれ、平凡であれ、能力の多少の違いはあっても、その差は本質的なものではない。指導と訓練によっては、誰もがもつ才能と力を、十分に発揮できると考えていたのである。事実、戸田のもとに集まる青年は、短期間に見違えるばかりの成長を遂げていった。

人間革命2巻「前哨戦」p.216

戸田自身、時習館などの教育の経験から、本質的には能力差はないと考えているのだと思う。また、戸田自身の青年に対する薫陶が優れているからでもあると言えるだろう。

沸き返るような拍手となった。彼は、それを浴びながら、英雄、豪傑のような姿で座った。事実、一座の人びとは、青年たちを褒めあげる気持ちをもち、その表情であった。
ただ一人、戸田城聖だけは、険しい表情になっていた。最初は、にこやかに聞いていた彼も、しばらくすると、にわかに顔を曇らせた。最後には眉をひそめて、悲しげな表情になっていった。

人間革命2巻「前哨戦」p.218

他教団へ行き、生命哲学を片手に論破してきたこと自体に、戸田は悲しくなったのではない。それを如何にも自分自身の力だと思い、傲慢な態度であったからだ。
 そして、次の箇所が、創価学会における折伏行の根幹ともいえるのではないか。我々青年部は、この気概は忘れてはならない。

「日蓮大聖人の仏教の真髄を、ひとかけらでも身につければ、いかなる教団の教義も、問題ではないのだ。勝負は、初めから決まっている。それを、いかにも自分たちの力でやったように、手柄顔をする者がどこにいる。
道場破りの根性はいかん。英雄気取りはよせ。暴言を慎み、相手からも、心から立派だと言われる人になれ」

人間革命2巻「前哨戦」p.219

「相手からも、心から立派だと言われる人になれ」この部分にこそ、創価学会の精神の根幹である。人と人は、意見が対立することはある。そしてその意見の勝敗が大事なように見えるが、最終的には、その相手から立派だと言われることの方が、さらに大事である。ここに、非暴力の中の「調和的非暴力」が内在されている。非暴力には主に、「対立的」と「調和的」の二つがある。「対立的」とは相手の論を論破し屈服させることである。一方、「調和的」とは相手の論を認めつつも、自身の論を出しながらその間を取っていく作業とも言える。この「調和的非暴力」とはいわゆる「対話」である。この対話の中で、主義主張が異なる人たちの内側に味方を作っていくことが、創価学会の目指している世界平和の形なのである。決して、対立を起こしていくものではない。
そして、具体的に次の箇所で戸田は具体的な折伏の姿勢を通して伝えている。

「いいか、もう一度、言っておく。一教団の首脳を、少しばかりやり込めたからといって、こうものぼせ上がり、たちまち驕慢になる君たちの性根を思うと、私は悲しいのだ。
……いいか、広宣流布とは、崇高なる仏の使いなんだ。
君たちが、どうしても行きたいというなら、それもよかろう。教えの誤りがあれば、正すことは必要だからだ。しかし、他教団の本部だから、特別の折伏行だなどと勘違いしては困る。一婦人が、相手の幸せを思い、真心込めて対話し、隣家の人を救う方が、よっぽど立派な実践です。
 こんなことを、幾度も繰り返して、それで広宣流布ができると思ったら、とんでもない間違いだ。
 今は、将来、真実に人びとを救い、指導していけるだけの力を養っている訓練段階だと思わねばならない。将来の本格的な広宣流布のための実践を、そんな、遊び半分のようなものと思っていては大変だ。三類の強敵との壮絶な戦いなのだ。
 その時に、退転するなよ。今、いい気になっている連中は、大事な時になって退転してしまうものだ。
 私は、君たちを、本格的な広宣流布の舞台で活躍すべき時に、退転させたくないから、今、叱っておくよ。よく覚えておきなさい」

人間革命2巻「前哨戦」p.220

 教団への道場破りは、確かに正邪を正すという点では必要であると容認しつつも、それが特別な折伏行であるわけではないと喝破されている。大事なのは一人の人間が、相手の幸せを真心こめて挑戦するかどうかである。対立を強めるような形のやり方では、絶対に広宣流布は進まないのである。

 同じ折伏の行動であっても、その一念は、人によってさまざまである。広宣流布を願っての真心の折伏もあれば、英雄気取りの言説もある。 戸田は、それを見抜いていた。事実、戸田の注意が的中し、後年、この青年たちのうちから、退転者が出ることになるのである。
(中略)
「自己の名誉のみを考え、人に良く思われようとして、活動する人物であれば、所詮は行き詰ってしまう。詐欺師に共通してしまうよ」

人間革命2巻「前哨戦」p.221

青春対話の中には、「初めは偽善でも、真剣に善をめざして行動しているうちに、だんだん本物の善になっていくのだ」(青春対話2 p.148)との記述がある。この戸田の言葉と相反しているようにも見えるが、「真剣に善を目指しているかどうか」が大事なのである。個人的な経験として、「これをしたら喜んでもらえるだろう」「こういう風に言ったらカッコいいだろう」と思うことはある。この時に自分自身が偽善者だなと思うことがある。しかし、そう思う一方で、自分自身の言葉の鉄鎖として、自身も言ったからには行動しようと戒めるのである。この積み重ねが、結果的に、その時は偽善であったとしても、自身の言葉通りに自分自身が変革していくことで、本当の善に変わっていくのだと思う。けれど、その認識もなく、名誉や良く思われようとする人では、結果、行動も起こさない言葉だけの詐欺師になってしまうということである。

うなだれて涙ぐむ青年たちに言った。
「戦に勝ったと帰ってきて、泣く男があるか。……おや女性もいたなー」

人間革命2巻「前哨戦」p.221

最後のこのシーンの戸田の一言は、会場を和ませるためのウェットな一言である。戸田先生も池田先生も、共に厳愛である。時にはるドライな場面もあれば、ウェットでその場を和ませる場面もある。すべては、そこにいる相手と周囲を気遣ってのものである。ここを見ても、一宗教団体の一教祖という神格化されたような立場ではなく、どこまで行っても庶民の中の代表であるということが伺うことができる。

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