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        さくら

      世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
          〔古今・春上・53・在原業平〕

             

         

    『竜』を読んでみました


芥川龍之介の作品である『竜』を読んでみました。
『竜』は『宇治拾遺物語』がもとになっています。
作者は、奈良の位の高い僧侶が立て札に書いたことが現実になる話であるかのように書いています。(大正八年、王朝物の一編)

立て札に書いたこと――『三月三日この池より竜昇らんとするなり。』

   春らしい箇所があったので、ここに写してみます。


竜を待って、いかに不承不承とは申すものの、南大門の下に小一日(こいちにち)も立っている訳には参りますまい。けれども猿沢の池は前の通り、さざ波も立てずに春の日差しを照り返しているばかりでございます。空もやはり朗らかに晴れ渡って、こぶしほどの雲の影さえ漂っている様子はございません。が、見物は相変わらず、日傘の陰にも、平張りの下にも、あるいはまた桟敷(さじき)の欄干(らんかん)の後ろにも、続々と重なり重なって、朝から昼へ、昼から夕方へ日影が移るのも忘れたように、竜王が姿を現すのを今か今かと待っておりました。すると恵印がそこへ来てから、やがて半日もすぎた時分、まるで線香の煙のような一筋の雲が中空に棚引いたと思いますと、見る間にそれが大きくなって、今までのどかに晴れていた空が、にわかにうす暗く変わりました。そのとたんに一陣の風がさっと、猿沢の池に落ちて、鏡のように見えた水の面(おもて)に無数の波を描きましたが、さすがに覚悟はしていながらあわてまどった見物が、あれよあれよと申す間もなく、天を傾けて真っ白にどっと雨が降り出したではございませんか。のみならず神鳴りも急に凄まじく鳴りはためいて、絶えず稲妻がおさのように飛びちがうのでございます。それが一度直角に曲がり、群がる雲を引っ裂いて、あまる勢いに池の水を柱のごとくまき起こしたようでございましたが、恵印の目にはそのせつな、その水煙(みずけむり)と雲との間に、金色(こんじき)の爪をひらめかせて、一文字(いちもんじ)に空へ昇って十丈あまりの黒竜が、もうもうとして映りました。が、それはまたたく暇で、後はただ風雨の中に、池をめぐった桜の花が真っ暗な空へ飛ぶのばかり見えたと申す事でございます――冷静さを失った見物が右往左往に逃げまどって、池にもおとらない人波を稲妻の下で打たせた事は、いまさら別にくだくだしく申し上げるまでもございますまい。


最後まで読んでくださって、どうも有難うございました。m(__)m


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