どんな年の取り方をしたい?

今日は「こんな年の取り方をしたいな」と思わせる方に出会ったので、寝る前に軽くここに収めておきたいと思いました。

お名前は伏せますが、それは脳神経外科医のU先生。

おおよそ2か月前から首から背中の左側にかけて痛みがあり、ほかの整形外科にも通っていましたが、なかなか痛みが引かずに悩んでいました。
そろそろ病院を変えてみようかなあと考えていたとき、母親から「近くに評判のいい先生がいる」とのことでU先生のもとを訪れました。


実はその病院、15年以上前私が小学生のころに一度訪れたことがありました。
小学校のお楽しみ会というイベントがあり、私たちは出し物としてお化け屋敷を作っていました。そういったイベント事がとびっきり好きだった当時の私は(いまは違う)開催当日、調子に乗りすぎて学校の柱の角に頭を盛大にぶつけて血を出すという失態をしてしまいました。

そこで連れてこられたのがU先生の病院。
私は先生に「学校で出し物があるからお化けみたいに包帯ぐるぐる巻きにしてほしい」と言いました。
先生は面白がって楽しそうに「じゃあ、包帯全部上げるからぐるぐるまきにして驚かせようね~」的なことを言いながらぐるぐるしてくれたような気がします。

言葉は正確ではありませんが、15年以上経った今でもその風景は鮮明に覚えています。

そんな優しくて、おしゃべり好きで、どこかやわらかい性格の先生ですが、
15年経って今日会いに行ったら

・・・

全く同じでした。

逆に本当に年取った?と思うくらい一緒でした。
対してこっちの聞いてないこともずっとしゃべって、こんなに時間かけてて大丈夫?と逆に心配になるほどです。

でも、なんだろう?この嫌な感じのなさは・・・?
と病院から帰ってしばらく考えていました。

すると、1つのことに気づきました。
それは「とにかく診療が楽しそう」ということでした。

患者さんとのコミュニケーションや治療中の説明、注射する瞬間までその内容をずっとしゃべってる。。。
その世間話も、治療内容も、話し方がしみじみと「それが好き」という表現をひたすらにされた気がした。

おそらくこのU先生は、とにかく自分のしていることが「好き」なんだと思う。
好きだからこそなのか、その方は所属する会の会長や開発部長といった重要なポストにも就いた経験があるらしく、優秀な後輩もたくさん輩出していたようだった。

しかし、このエピソードのみで「こんな人みたいに年を取りたいな」と思うのは愚かか?とも同時に考え、こんな感情も芽生えた。

・医者なのだから高収入で人生安定しているからそんな余裕なのだ
・好き=仕事にできて、成績も優秀で順風満帆だから楽しそうにできるんだ

こう思うことは卑屈だろうか?
いや、そうは思わない。

実際に仕事と好きなことのギャップを感じながら生きている人をたくさん知っているし、今はSNSで嫌というほどそういった人材広告を見せつけられている。年収だって頑張っても上がらない、足りないと嘆く現状も知っている。だからこそ年収、好きなこと、成績アップといったこれら3つを願う気持ちは痛いほどわかるし、自分もそうだ。

では、また逆に考えてみよう。

・医者であれば誰しも幸せか?
・年収が高ければ幸せか?
・職場で成績が良ければ幸せか?

どうだろう。
これを考える人によっては「Yes」であり、「No」だと思う。
私も「YesでありNo」でもある。
医者であればだれでも楽しそう、幸せそうかといわれるとそうではない。
また、年収が高くても不幸な人をたくさん見ている。「私にはこう生きることはできないな」と思わせた人もたくさんいる。
前職で全国一レベルで成績が良かったが、正直完全な幸せだったかといわれるとそうではなかった。

では、このU先生とは何が違うのか?
仮にU先生のような雰囲気を醸し出すには、どう生きればよいのか?
考えてみた。

私の頭の中だけで出した一つの解は
「いましていることが”楽しい”か」
だった。

「楽しい」とは何か?
いったん辞書で調べることにした。

コトバンクより
(1)満ち足りていて、愉快な気持ちである
(2)裕福である、お金持ちである
(3)作物の出来が豊かである

ふむ、、思ったよりも金持ちじゃないといけない感が増したな・・・笑

やはり最低限の収入は必要らしい。
確かにいくら心が豊かでも、経済的負担で生きていけない、ご飯が食べれない、誰かを助けることもできないでは幸せではないことは確かだ。
お金持ちになるために努力することは「楽しい」状態にするには大事なことらしい。特に出家などせず資本主義社会でパンピーとして生きていくためには、純粋に稼ぐために仕事をしていたほうが良いと、無職の私は切実に思う。(無職は結構苦しいよ。笑)

では、一方で「満ち足りていて、愉快な気持ちである」を達成するにはどうすればよいか。

・・・これってかなり難しいんじゃないか?

お金持ちになってどんなものでも手に入ることが満ち足りた状態か?

それは私の中で明確に答えが出ている。答えは「No」だ。
ぜひこちらのYouTubeも見ていただきたい。非常に興味深い最近感動した動画の一つです。

収入が上がってもそれに見合った生活水準や娯楽、体験を得ようと、より一層上の目標を立ててしまう。では、そこに終わりはあるのか?

1年前の自分だったら「終わりはある」と言っていたかもしれない。
夢も希望も持っていた。そして驕りも。

いまは明確に「終わりはない」と思う。
人の欲望は終わることもなく、満足することもない。

では、何をすれば「楽しい」か?

もうそれは、
『今の一瞬一瞬に人として出来ることを楽しむ』
しかないのではないか?

出した答えが、ここまでつらつらと、長々と綴ってきた割にすごく単純なことを言い出してしまって自分でも唖然としているのだが、
意外と実にシンプルなことかもしれない。
ただし、「人として出来ること」を一つ一つ楽しむのだ。

この「人として出来ること」に気づけるかどうかは非常に大事かと思う。
「出来ること」をしっかり「やれる人」は意外と少ないからだ。

ただ楽しいことをやっとけばいいのね~、じゃあSNS好きなだけ見てYouTubeとかTikTokとがショートをひたすらスワイプする~とか、そういういうことではない。

嬉々として自分のやっていることを楽しそうに人に伝えることのできるかどうか。
世間から認められるかどうか。
人のためになっているか。
消費ではなく、生産する人間であるか。

なんだか批判の起きそうな言葉の羅列だが、この多様性の世界で、あえて、一周回ってすごく、すごく大事なことだと言いたい(自分にも)。

人の目を気にする、だったり、世間から認められる、といった言葉は今はもう排他されるべきものなのかもしれない。
しかし、この多様性を認めなければならない風潮や自己愛を異常に高ぶらせる風潮は「やらない人の言い訳つくり」も同時に助長しているようだと感じる。だから自分も危ない。

「崇高さ」「謙虚さ」「実直さ」

そういった言葉にするのが難しい、なんというか、その人からにじみ出る内面の柔和さ、厳しさをもっと心に秘めて目標として掲げるべきではないか。
目に見えるSNSのフォロワーやいいね、ルックス、肩書きだけではなく。

きっと、目に見えないことの方が、世の中大事だったりするかもしれない。高校に掛かっていた掛け軸『見えるものの奥にある、見えないものを見つめよう』という言葉をなんとなく思い出した。

もう一度、結論に戻ると

『今の一瞬一瞬に人として出来ることを楽しむ』

ということに今夜は落ち着いた。

そうやって目の前のことをやっていくしかないのも人生なのかもしれないし、それがあるべき人生そのものなのかもしれない。
また、「楽しいかどうか」ではなく、楽しいと思える部分を探す、という視点になることの方が大事だったりもする。

また、文字を書きすぎた。
明日の朝、後悔しないように早く寝よう。

明日もよいことあるといいね、ハム太郎

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