いじめ対応にいじめられる教師たち
いじめ対応の現実:問題の大小を見極める
いじめが原因での自殺が報じられ、世間ではいじめに対する注目が高まっています。
しかし、いじめに対する反応は時折過剰となります。
子ども「先生、いじめです!」
保護者「うちの子はいじめられている!」
世論「学校はいじめを黙認しているのか!」
社会が騒然となります。
一方で、国の捉え方として学校現場では「いじめはあって当然」という解釈がされています。
「いじめをなくせという世論」と「いじめは有って当たり前」という考えの対立。
国全体でいじめ対応への理解は共有されているのでしょうか。
いじめの定義変遷:主観性が問題を複雑に
いじめの定義は過去に何度も改訂されています。
今は「一定の心理的物理的影響で本人が精神的苦痛を感じたら」いじめと認知されるようになりました。
これは、いじめにあたるかどうかを客観的に判断するのではなく、被害者の主観に基づいて判断するというアプローチです。
この変更により、いじめの範囲が広がり、本人が嫌だと感じた出来事が全ていじめと解釈される可能性が生まれました。
これは一見、良心的に思えます。
しかし、捉えようによっては事実より主観的に本人が「いやだ」と思ったら全ていじめになります。
相手の都合も自分の都合も関係ない、本人にとって嫌なこと全てがいじめと解釈されるかもしれません。
主観と客観:いじめの判断難しさ
「先生、Aちゃんに告白をしましたが、断られました。ぼくは傷ついたのでこれはいじめです!」
極端な例として、相手の告白を断った場合を考えてみましょう。
もし断られた相手が精神的な傷を受け、本人が訴えれば「いじめ」になるのでしょうか?
この場合は明らかにいじめではありません。
支援者は相談されたら、ふられた子と話し合い、傷ついた心を癒す手助けは必要でしょう。
主観と客観の違いを理解し、事実と感情を分けて考える必要があります。
いじめ対応の認識ギャップ:教員の精神的プレッシャー
「いじめの定義の変更」、さらに集計方法がいじめ「発生件数」から「認知件数」に変わり、いじめはさらに増加して大変だと騒がれます。
確かに、いじめで苦しんでいる子にとって「本人目線のいじめ対応」は極めて重要です。
しかし問題は、いじめに対する学校現場と世間との認識のギャップです。
保護者や世間から「いじめですよ!」と強く指摘されます。
それが教師にとっては大きな精神的な圧力やプレッシャーにつながります。
教員はささいなトラブルにも解決のために必死となります。
本来、学校においてトラブルが発生することは当然のことでした。
トラブルを乗り越えて生徒たちは成長し、発展していくのが学び舎のあり方でした。
教員はトラブルが起きた際には話し合いやサポートを通じて生徒たちを支え、問題を解決してきました。
しかし、近年では乗り越えて成長する過程そのものが、社会的な注目を浴び、大きな問題となってしまう。
それが「いじめ」です。
この変化により、教員はトラブルに対するアプローチに悩み、ジレンマに直面しています。
トラブル=全ていじめ:教員の苦悩
学校において、トラブルが全ていじめとして報告され、対処される状況が当たり前となりました。
事実であるかどうか、関係者や本人を含めた入念な調査が行われ、教員はその結果に基づいて繊細で適切な対応を求められます。
この変化により、教員は当然個々のトラブルに対して今まで以上に時間と労力を消費します。
また、いじめと言われないようにトラブルを未然に防ぐための強い圧力をかけるかもしれません。
教員は、トラブルを起こさぬよう「全員強制仲良し」の思想になるかもしれません。
脅迫観念に縛られ、そのためには強い圧力をかけるかもしれません。
全てのトラブルがいじめとみなされ、対処するプロセスが繊細となったことで、学校現場では同調圧力が強まるのではないでしょうか。
オルヴェウス「いじめの構造」から悪化を防ぐ
この状況から脱するために大切なことがります。
それは、教員がいじめを「根絶」することではありません。
いじめの「悪化」を防ぐことに焦点を当てることです。
いじめの「悪化」を防ぐ。
そのためには「いじめの構造」を理解し、悪化のタイミングを察知することが大切です。
オルヴェウスの「いじめの構造」はその参考となります。
オルヴェウスは,ノルウェーでいじめの自殺事件が発生し とき,世界で初めて国を挙げていじめの取り組みを主導した研究者です。
膨大な調査によりいじめの基本的な構成要素を明らかにしました。
いじめ構成要素:力の不均衡
いじめの構造の一環として、力の不均衡が挙げられます。
これは加害者と被害者の間に力の差が存在する場合を指します。
力の差自体は一般的で避けられないものです。
しかし、問題はその力を濫用することにあります。
力の例として「身体的能力」「集団での発言権」「組織での権力」「意見の偏り」などが考えられます。
特に発達障害者は相対的に少数派であるため、力の不均衡がリスクとなりやすいのです。
発達障害者がいじめの被害にあうことは、彼らが社会的な力関係の中で脆弱であることに起因しています。
そのため、教員は力の不均衡を早期に察知し、適切なサポートを提供することが必要です。
不公平な誤認の危険性
いじめの構造の二つ目は、不公平な誤認がある場合です。
これは、被害者と加害者の双方が間違った認識を持っている状況を指します。
特に、関与者が「いじめではなく、単なるイジる・イジられる関係だ」というような誤った理解が広がると、いじめが正しく認識されにくくなります。
ときに被害者も「ぼくはいじめれてるわけではない」と捉えてしまう場合もあります。
このようなケースでは、被害者と加害者だけでなく、傍観者もいじめの実態を見抜くことが大切です。誤解が広がると、いじめは加速する一方です。
【まとめ】
以上のようにいじめが「悪化」する要因は主に「力の不均衡」と「不公平な誤認」にあると考えられます。
これらの要素が絡む場合、教員は特に警戒が必要です。
しかし、それ以外の場合は、過剰な反応を避け、冷静に事態を判断してほしいと思います。
教員は「いじめ阻止」の精神的な負担から解放され、根絶の圧力ではなく「悪化防止」の視点をもつことが大切です。
国民は今のいじめへの正しい解釈と学校現場への適切な要求に徹しましょう。
いじめに対応に四苦八苦する現場を、どうかいじめないでほしいと思います。