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ご祝儀 8 〜わたし以外のオンナは死んで〜【連載小説】

「じゃあ、千賀の結婚に乾杯!」
 千賀の先輩が高らかにジョッキを掲げた。 「乾杯!」
 皆がそれに続いた。会社から少し歩いたところにある宮益坂のダイニングバーで、千賀ら親会社の男たちと、あかね、聡子、麻紀の八人で集まっていた。前祝いを兼ねての飲み会だ。
「ついに来週だな」
 千賀の同期の男はビールを飲むと、陽気に千賀の肩を叩いた。
「いつ入籍するの?」  
 聡子がきゅうりをバーニャカウダのソースにつけながら、さして興味が無さそうに千賀に尋ねた。
「式の前日だよ」
「千賀さんに質問!藤堂さんと結婚しようと思った決め手は?」
 麻紀の声は無邪気そのものだったが、その目にはわずかに軽蔑の色が滲んでいた。男たちが決して気づかない類いのものである。 「決め手って……できちゃったから」  
 ばつが悪そうに答える彼に、周りの男たちは失笑した。
「ひどーい。それだけじゃないでしょう。彼女のどこが好きなんですかぁ」
 酒に弱い麻紀は早くも赤くなっている。 「そうだなぁ、一緒にして楽だし色々と尽くしてくれるとこかな」
 彼が答えると麻紀は「ふうん」と、さもつまらなそうにつぶやいた。
「今日は、藤堂さんなんで来なかったの」あかねが聞くと、
「ああ、家族と過ごしてるよ。引っ越しの準備もあるし」と、千賀は答えた。
「あれ、オマエら同棲してるんじゃなかったっけ」
 千賀の先輩が聞いた。
「してないですよ。彼女、箱入り娘というか親が厳しいから、同棲とか禁止されてるんで」  
 できちゃった結婚は許されるんだ、という言葉をあかねは飲み込んだ。聡子と麻紀が揃って目を合わせてきてくすくすと笑った。 「先輩ももうすぐパパかぁ。そうそう金使えなくなりますよ、俺みたいに」
 一児の父になったばかりの千賀の後輩が、口にビールの泡をつけながら言った。
「おまえんとこは共働きだからいいじゃん」 「そうだけど、嫁が全部管理してるんで」 「うちもできれば働いてほしいんだけどなぁ」
 千賀は独り言のようにつぶやいた。
「専業主婦になるの?」
 聡子が聞くと、
「そう。まだ二十六歳だってのに、もったいないよな」と、彼は溜め息をついた。
 二時間ほどでお開きになり、渋谷駅へ向かってぞろぞろと歩き出した。皆それぞれ山手線、田園都市線、副都心線と分かれて改札へ消えていった。残されたあかねと千賀は同じ方向へ歩いている。二人とも井の頭線沿いに住んでいる。さきほどまでべらべらと喋っていたのに彼は無言になった。あかねは少し足がふらついている。それに気づいて彼が「タクシーで送って行こうか」と言った。
「大丈夫。ここからすぐだもん」
「というか、もう一軒行かない?」
 千賀はいつもの癖で目を泳がせた。
「いいけど」
 あかねが答えると彼は瞬きをした。
「ほんと?断られるかと思った……ありがと」
 道玄坂のワインバーに入った。以前千賀と一緒に飲んだことがある店だ。
「懐かしいな」
 カウンターに並んで座ると彼は店内を見回した。バーテンダーの後ろにはずらりとワインのボトルが並んでいる。あかねはサングリア、千賀は白ワインを頼んだ。生ハムやオリーブをつまみながら、仕事の話や最近観た映画の話などをした。飲み会の場とは違って彼は時折浮かない表情を見せる。
「千ちゃんなんか元気ないね」
「そうかな」
「もしかしてマリッジブルーってやつ?」 「そうかもね、まだ二十九歳なのにもう結婚かと思って」
 彼は宙に視線を泳がせた。
「別に早くないじゃない」
「世間的に見ればね。でも俺自身まだまだ子供だし、同級生とか会社の先輩とかもほとんど独身だから、正直早まったかなって思っちゃうよ。珠理奈と半年も付き合ってないのに、いきなり父親になるんだよ。色々考えちゃうもん」
 フォークに生ハムを巻き付けながら彼は溜め息をついた。
「そんなこと言ったって、もう後戻りできないでしょ。彼女、妊娠しているんだから」
 あかねは縮こまっている千賀の背中を叩いた。
 「そうだね、だからもう腹くくったよ」
 彼は諦めたように笑った。
 聡子が千賀の同期から聞いた話によると、二人が交際を始めてまもなく珠理奈は結婚を迫ったが、千賀は最低でも一年以上は付き合ってから、と渋っていた。ある時、珠理奈に「安全日だから」と耳元で囁かれ、避妊具をつけずに行為に及んだ。そして彼女は妊娠し、彼は非常に慌て悩んだ。右往左往しているばかりでプロポーズをしない千賀に、珠理奈は彼の両親や上司に相談する、結婚してくれないのなら一人で産んで育てると半ば脅すように泣いたらしい。そんな彼女の姿を見てようやく決意をしたのだという。この話を聞いた時、珠理奈らしいとあかねは思った。入社して一年にも満たない彼女の何を知っているわけでもないのだが、千賀を責めるその姿がありありと想像できた。聡子と麻紀は、“安全日”というのは全くの嘘で、はめられたんじゃないのと嗤っていた。千賀は社内の女たちの間で、“性欲に負けた、哀れで間抜けな男”という烙印を押されてしまった。
「あかねちゃん、彼氏は?」
 彼がオリーブをつまみながら聞いた。
「つい最近別れたばっか」
「そうなんだ、あの会計士の人?」
「ううん。その後に付き合った公務員」
「あかねちゃんはもてるからなぁ」
 千賀が陽気に笑った。かなり酔っているようで耳まで赤くなっている。
「続かないだけよ」
 あかねはグラスの底に沈むフルーツを見て答えた。
「あ、あかねちゃんもう飲み終わったね。じゃあさ、ボトルで頼もうよ」
「千ちゃん、飲み過ぎじゃない」
「いいんだよ、だってこうして飲むなんて、そうそうできなくなるんだし……」
 彼は切なげな瞳になった。そして店員にチリ産の赤ワインを頼んだ。

(9へ続く)


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