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美について 猫と哲学者と『風立ちぬ』

毎朝決まって朝5時に起こされる。激しい鳴き声だ。特に用事はない。強いて言うなら、私を起こすことが目的なんだろう。まだ寝ていたい。疲れているんだ。起こさないでくれと思いながら目を開けると、甘えたそうな顔をこちらに向けて、また鳴いてくる。かわいい。なんてかわいいんだ。

猫は美しいと私は思う。顔も一つ一つのしぐさも、とても美しい。私を起こすだけ起こして自分は寝てしまうこの猫に煩わしさを感じつつも、その美しさに魅了されてしまう。この気持ちはいったい何だろうか。美とはいったい何なのか。最近読んだ本の中で『近代美学入門』という本があった。美学史について書かれた本だった。その中でも特に面白いと思った箇所は美の客観性と主観性の話だ。

古代から中世までの間、西洋では美は「もの」の側にあると考える客観主義美学が主流であった。「万物は数である」と言ったピュタゴラスやプラトンなどは、美は数学的で均衡のとれたものにあるといった。

近代になると主観主義美学へと主流が変化していくことになる。代表的なのはバークやヒューム、道徳感覚学派だ。バークは「対象を数学的に分析せずとも美しいと感じることは一瞬だ」と言った。

ヒュームは「美は対象を見つめる心の中にある」という思想を持っていた。道徳感覚学派では、美とはものがもつ性質ではなく、見る人が美しいと感じる感情のことなので、ものごとをどのように感じようが「すべて正しい」と言った。ヒュームの主観主義美学は日本語で言う所の蓼食う虫も好き好きだ。それぞれの趣味嗜好は違うのだ。主観主義美学は多様性を重んじるのだ。

では美は徹底して孤独なのか。そこで現れたのがカントだ。晩年の主著『判断力批判』は近代美学を確立した。

カントは美を道徳や味覚と分離させた。道徳は客観的で普遍的だ。味覚は主観的である。美も徹底的に主観的であるけれど、味覚とは違うらしい。美は主観的でありながら普遍的妥当性を要求するから。

つまり、私が美しいと思っていることは、皆も美しいだろうと思うということ。ではなぜそうなのか。残念ながらこの本はカントについての本ではないので詳しくは書かれていなかったが、美を感じるときの感情はあらゆる人に共通するからということらしい。カントは美を道徳や機能性、有用性、その他あらゆるものから自律させた。美は道徳や政治に縛られない。芸術は芸術の為にあるという思想も近代に生まれた。ここまでだとすごく良いことのように感じるが果たして問題は何もないのか。ドイツの映画監督レニ・リーフェンシュタールはナチスの映画をつくったことで戦後激しく糾弾された。他方で彼女の作品『オリンピア』は映像美を高く評価された。彼女は自分の作品が持つ政治性には無関心だったという。

このエピソードから私が思い出したのは宮崎駿の『風立ちぬ』だった。主人公堀越二郎はパイロットが夢だった。しかし目が悪くそれはかなわない夢であった。彼は飛行機を造る設計の道を夢とした。彼は飛行機を美しいと感じていた。たとえそれが戦争の道具だったとしても。この作品での堀越二郎は悪であろうか。美がその他あらゆるものから独立しているのなら悪だとは言えない気がする。

美は主観主義と客観主義が混在した概念だとこの本を通じて改めて実感した。主観と客観が入り混じるという点では時間と近しいかもしれない。

最後に言えることは、猫はやっぱり美しいということだ。

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