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映画感想文 after sun


本作を観終わって、疑問がわいた。

自分が「思い出」として振り返った脳内映像のいったい何%が、真実と一致しているのだろうか。

2023年、映画好き界隈で話題になっていた本作を、最近ようやく観た。

新しい衝撃があった。
個人の脳内にある「思い出」の映像スクラップ
を観たような。
子供の時分の懐かしさと、大人になって解る父の感情。ソフィの私的な思い出が、普遍性を持って観る者の思い出とリンクする、不思議な映像体験だ。




この映画は、11歳のソフィと31歳の父カラム、父と娘の夏のバケーションを描いたものだが、それを確証付けているのは、ビデオカメラに納められた記録映像のみ。

そう。
真実はビデオに収められている二人の映像のみなのだ。
それ以外は、ソフィの「思い出」という曖昧な記憶の掘り起こしだ。そこにカラムと同じくらいの年齢になったソフィ自身の「今」も加わる。

ソフィが7歳のころに両親は離婚、父カラムとは別居で、たまに会えている関係のようだ。
カラムはゆとりのない、どこか追い込まれて切迫した状況にある。それが金銭的なものなのか、職業など社会的な悩みなのか、はたまた病に侵されているのか…はっきりとしないが、うまくいっていない。それをソフィに見抜かれているし、気を使わせてしまっていることは伺える。
父のふとしたときにみせる曇った表情。それを見逃さない、思春期の感情のひだは繊細で、そこの表現力に長けているフランキー・コリオの才能に見惚れる。




起承転結がはっきりしているわけではない。
特別な設定も特にない。
ただ2人のビデオ映像と、不確実な記憶の反芻が交錯する。

ソフィの31年のこれまでの人生において、最後の父の記憶は11歳の夏休みで止まっており、その後いずれかの時点でカラムが自ら命を絶ったのだろうと推測される。
が、それも推測にすぎない。
もしかしたらソフィの思い出の文脈からそう思わされているだけで、存命中かもしれないし、極端なことを言えば、最後のバケーションであるということ自体、ソフィの脳内で作られた設定かもしれない。


写真や映像に残された思い出は、客観性がある。かつてそこに「居た」という事実が刻まれているからだ。

本作はビデオに映った事実を軸にしながら、ソフィの「思い出」を、誇張や願望も孕んで展開しているのだ。

逆ならばどうなるだろう。
20年後の51歳のカラムが健在だと仮定して、同じビデオに納められた「思い出」を反芻したら… かなり違う世界が展開されるのではないか。

ひとの「思い出」は、それだけ私的な情報で彩られた創造物だということだ。

さて、ソフィの思い出は、何%が実際の出来事と一致しているのだろうか。
きっと答えは、どこにもない。

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